思い出 (アーカイブ③ 子どもの頃) | くにこ先生のコーヒーブレイク

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通りすがりのあなたに、心に残るお話をひとつ

 もうそろそろ落ち着いてもいい頃なのではないか、と毎日のように思いながら、未だに忙しい毎日を送っている。
 父が他界してから、今日でちょうど30日になる。

 まだ四十九日には20日あまりあるのだ、と改めて暦を眺めた。
 気丈にふるまっている母だが、「お経を読むと途中で泣き出してしまって最後まで読めないんよ。」とつぶやく。

 うーん、どうもいけない。

 すぐには無理かもしれないが、なるべく楽しいことを話し、美味しいものを食べて、もとの元気な母に戻って
 ほしい。
 思い出話をすると、母も楽しそうだ。
 まだ、少しばかり、昔の話をしてみるか・・・。





『子どもの頃』(2007年6月25日アップ)


 私は、昭和29年の生まれである。
 学生さんからは「戦後生まれですね。」と言われ、戸惑うことがある。
 確かに、戦後は戦後なんだけどね・・・と。
 私自身が描く「戦後」とはずい分違っているからだ。


 昭和20年。
 恐ろしい原子爆弾が2つも投下され、焦土と化した日本は急激な変化を余儀なくされた。
 戦争は終わった。
 義父は
 「戦後、民主主義、民主主義と言われ、何が民主主義か分からなかったけれど、何か新しい社会になる、
  ということだけは皆が感じていた。戦争は絶対しちゃいかん、と思った。」
 という。

 手探りの中から、国民皆が民主主義国家を目指したのである。

 新しい時代、新しい社会を作ろう。

 戦争で傷ついた人々も、社会の復興に期待を寄せた。
 傷つきはしたけれど、頑張る力は私たちの想像以上のものだったようだ。


 私の父は教育界に入り、学校での男女共学の理想に心を躍らせた。
 母は戦争で兄を亡くし、残された母親を支え仕事に就いた。
 一生懸命に毎日を送り、結婚し、子どもが生まれる。

 この怒涛の戦後の混乱期が一段落ついた頃生まれたのが、私たちである。



 私が幼少期を過ごしたのは、昭和30年代だ。
 日本が高度経済成長期に入り、やみくもに突き進んだ日本の様子を目の当たりにしながら成長したといっても
 よい。

 小さい頃は、確かに貧しかった。

 私の記憶に残る街の道路は、まだ舗装されていない。
 「ロバのパン屋さん」は、本物のロバで屋台を引いていた。
 道に馬のウンチが落ちていると、わざわざ子どもたちは踏みに行く。
 「足が速くなるって。」・・・道路は遊び場だったのだ。
 自動車はたまにしか通らないから、道路でボール遊びも、バトミントンもやることができた。

 一歩入った路地裏では、「けんけんぱ」や「陣取り」「なわとび」「フラフープ」etc. と遊びは無尽蔵にある。
 ラッパを吹いて行商するお豆腐屋さん、自転車でやってきてその場でポン菓子をつくってくれるおじさん、
 ゴミ拾いをし防空壕で寝起きをするおばさん、実に様々な人たちが通り過ぎた。

 道路がデコボコだったので、バスに乗ると決まって車酔いをして吐いた。
 (たった3停留所くらいの距離でも・・・)
 バスの車掌さんも慣れたもので、すぐに片付けてくれるのだ。

 道行く車は三輪自動車が多く、バランスを崩してよく横倒しになってしまう。
 大人たちは駆け寄って「よいしょ。」と掛け声をかけながら、車を元に戻した。

 トトロの世界、そのままである。

 トイレはもちろん汲み取り式だ。
 私の祖父は、汚物を桶に汲んでは庭の野菜にかけていた。
 完全有機野菜である。

 農家の人が、時々野菜や果物を天秤ばかりで量り売りにやってくる。
 庭にはお茶の木が植えてあって、春になると茶摘みを手伝った。


 お風呂も五右衛門風呂で、マキで火を焚き沸かさなければならない。
 子どもも、家の働き手としてよく手伝いをさせられていたような気がする。


 食生活もとても豊かとは言えないものだ。

 鯨の肉は今でこそ手に入らなくなったが、その当時、最も安くよく食卓にも登った。
 しかし、牛肉や豚肉は贅沢品だ。
 鯨以外のお肉の日は「わーい。今日はお肉だあ。」と、ついうれしくて声を上げた。
 お吸い物が食卓に並ぶと、「今日は、お客さん?」と尋ねたものである。
 お刺身は贅沢この上なく、5切れでご飯を3杯も食べたんだよという話は、今でも家の語り草になっている。
 おやつは、母の作ったドーナツやカルメラ焼き、パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたスティック。
 幼稚園や小学校の給食で出される牛乳も、脱脂粉乳だった。


 ちりん、ちりん、と音がすると子どもたちは一斉に道に飛び出してくる。
 紙芝居屋さんだ。
 自転車の荷台に積んだ木製の箱には紙芝居が入っている。
 鐘で集まった子どもたちを前に、おじさんは飴を配り始める。
 もちろん、お金と引き換えだ。
 紙芝居の台の部分に引き出しがついていて、その中にべっ甲飴が入れてあるのである。

 ひととおり飴が行き渡ると、おじさんはおもむろに「はじまり、はじまりー。」と紙芝居を始める。
 子どもたちは、食い入るように物語に引き込まれていく。

 私は、子どもにはお金を持たせないという家の方針で、お小遣がもらえなかった。
 現金を持たない私は、当然飴が買えない。
 だから、紙芝居は一番後ろから眺めることしかできなかった。


 この話をすると、娘たちは「やめて」という。

 かわいそうすぎる。
 セピア色に染まった昔の写真を眺めているようだ。
 子ども達の後ろで指をくわえながら、背のびして紙芝居を見ている小さな女の子を想像するだけで涙が出そうに
 なる、のだそうだ。

 しかし、思い出してみるものの、自分が惨めで、かわいそうだったという記憶は無い。
 子どもは今ある現実をそのまま肯定するものなのだろう。


 程度の差こそあれ、当時は皆貧しかった。
 戦後すぐの混乱期の様子に比べたらずっとずっと豊かだが、今振り返って思い出すと、やはり生活の環境も
 食べ物も相当ひどい状態である。

 だが、貧しさ=不幸ではない。

 その時代や地域に合った生活の中で人は「幸福」を感じるのである。


 その後、高度経済成長期の流れの中で、生活は目に見えて豊かになった。
 三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ)から、3C(車、カラーテレビ、クーラー)の時代へ。

 食卓にも肉料理が多く出されるようになった。
 水洗トイレの快適さや、自動で沸くお風呂なんて、考えると夢のようだ。



 でも、だからといって私たちが前よりも「ずっと」幸福である、という訳ではない。

 私は、当時も今も「しあわせ」である。




(追記)
 母と当時の話をすると、様々なことを思い出す。
 普通に着物を着て割烹着をつけた母の姿が目に浮かんでくる。
 台所に立つ母の横で、父は晩酌をしていたっけ。
 まあ、やっぱり、父は幸せだったのだ、と思う。