子どもの遊び | くにこ先生のコーヒーブレイク

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通りすがりのあなたに、心に残るお話をひとつ

 上の娘が6歳、下の娘が4歳、息子が1歳。
 1980年代の中葉のことである。
 少子化の波は衰えることなく、毎年のように出生率は下がり続けていた。

 ちなみに、一人の女性が15歳から49歳までに産む子どもの数を示す合計特殊出生率は、1985年に1.76、
 1990年に1.54、そして2005年には1.26と激減している。
 (2006年若干増加したが、また今年は減少傾向にあるという。)

 確かに、その当時子どもの数が減ったというのは実感を伴っていた。
 子どもの周りのお友達のきょうだい数も2人が圧倒的に多く、一人っ子も珍しくはなくなっていた。


 「少ない子どもに手をかけた教育を」という流れは、子どもの生活をも変える。
 娘の幼稚園のお友達も、週に何回ものお稽古事や塾に通うのに忙しそうだった。
 我が家では習い事をさせていなかったので、降園後はフリーだったが、お友達と遊ぶのにもアポイントメントを
 取らなくてはならない。

 面倒なことである。

 私の小さい頃1960年代は、いきなり家に押しかけて「あそぼ!」と声をかけると次々に皆が集まってきていた。
 しかし、80年代になると、子どもたちは「あそべる?」とたずねあう。


 幼稚園のお迎えに行った時のことである。
 娘のお友達の男の子が私のところにやって来て、声をかけた。

 「おばさま。」・・・おばさま・・・。色々と呼び名はあるが、おばさまは初めてだ。
 「はい。何ですか?」
 「おばさま。今日は、みさこちゃん、お昼からあいていますか。
  遊びにうかがいたいんですけど、いい  ですか。」
  ・・・うーん。礼儀正しい。
 「どうぞ、どうぞ。みさこはいつもあいているから、いつでもどうぞ。おまちしてますよ。」


 1日に遊ぶお友達は、多くてもせいぜい2~3人といったところだろうか。
 きょうだいも少ないので違う年齢のお友達と遊ぶこともあまりない。
 たまに大人数になると「何をして遊ぶか」でひと騒動である。

 ある日、人数が集まったので庭で「かんけり」をしようと皆で話している。
 しかし「やり方を知らない」というので、ルールを教えてやった。

 それから2回ほど缶を蹴った頃だろうか。ほんの数分もたたないうちに、庭で遊んでいた子どもたちが
 ワヤワヤと部屋に戻ってきた。

 「あー。疲れた。」
 「走るの、つかれるー。」
 「おばちゃん、ゲームある?」
 「ううん。ない。」
 「えー。みっちゃんち、ゲームないんだって。」
 「おとうさんに、もってきてもらおっかなー。」

 ゲームが無いと分かると、今度は部屋で遊ぼうということになった。
 子どもたちは子ども部屋にぞろぞろと入っていく。

 ずい分と静かである。行ってみると、部屋の四隅の角に背を持たせてマンガ本を読んでいる。
 話しかけても、返事をしないほどの集中力だ。
 座っている横に山ほどの「ドラえもん」のコミックを積み重ね、次から次にと読み進めているのだった。

 その日、子どもたちはニコニコと満足して帰った。


 また、ある日のことである。娘がお友達の家に遊びに行くと言う。
 ちょうど私もその子どもさんのお母さんに用があったので一緒に出かけ、皆で時間を過ごすことになった。
 子どもも4人ほど集まって賑やかである。
 親同士がお茶を飲む横で、子どもたちはテレビゲームを始めた。

 ゲーム機器を操作しているのは1人だったが、その周りを皆で囲んでテレビに釘付けになって
 「やったあ」「すごーい」と歓声を上げている。
 娘も周りで応援しているその他大勢の一人である。

 陽も落ちかけた夕方、私たちは家路に着いた。娘は顔を紅潮させて満足している。

 「あー、楽しかったぁ。きょうは、いーっぱいあそんだ。」

 遊んでないだろ。思わず口に出かかったが、言葉を飲み込んだ。
 うん。家にはゲーム無いもんね。楽しかったんだろうね。


 しかし、子どもの遊びって、これでいいのか。
 マンガ本やゲームは確かに面白いだろう。
 だが、本やゲームに熱中することは、友達と遊ぶことではない。
 同じ空間を共有するという意味では「いっしょに」という表現が適切かもしれないが、人との関係は必要なく、
 道具に遊ばれているだけである。


 子どもには、できるだけ友達と遊んで欲しかった。


 子どもたちの間で、「ごっこ遊び」がブームになっていた時期がある。

 幼稚園から帰ってきた娘は、時々家に遊びに来てくれるお仲間2・3人とままごと遊びにふけるようになった。
 彼女たちがこよなく愛した「ごっこ遊び」は、「小公女セーラごっこ」だった。
 当時、テレビのハウス名作劇場で放映されていたアニメーションである。
 『小公女』のマンガ版で、ひどい境遇に陥った主人公のセーラが、周りのいじめや中傷にも落ち込むこと無く
 優しく健気に生きて、最後はハッピーエンド・・・といった内容である。
 中に描かれた友達ラビニアたちからのいじめがことのほかひどく、「どうかな」と思う場面も多かったが、
 子どもたちはテレビに見入っている。

 今日は「セーラごっこ」やるから、ティッシュつかっていい? と娘たちが尋ねてきた。
 「いいよ。でも、あとは片付けておこうね。」
 「は~い。」
 「わっかりましたぁ。」

 しばらくして部屋に戻ると、床一面にティッシュが散らばっている。
 上の娘は同級の3人のお友達とソファーの上に立って、ティッシュを小さくちぎって撒いていた。

 「ほら、セーラ。ここにも落ちてるわよ。」
 「こっちもよ。」
 「ほら、早く。」
 「はい。」
 ただ一人年下である下の娘は、箒と塵取りを両手に持って、姉さんたちがばら撒くティッシュをあたふたと
 掃き集めている。

 ラビニアたちが、部屋の掃除にやって来た召使のセーラに意地悪をして、クッキーをわざとばら撒き、
 箒で掃かせる場面である。
 ひどいこと、意地悪いこと、この上ない。
 姉さんたちはラビニアたちのいじめ役。妹は健気なセーラ役。
 どうも、子ども達の中で一番人気は悪役ラビニアらしかった。


 ただ、「ごっこ遊び」は、役をいかに演じきるかということが子ども達の目的らしい。
 いじめ役やいじめられ役をやっているからといって、遊びを離れたところでいじめをやっている訳ではない。
 「ごっこ遊び」が終わると、いつもの仲の良い友達・きょうだいである。

 いじめの何たるかを学ぶことも、遊びの機能の一つなのかもしれない。


 子どもたちは、時にかくも見ていて残酷に映る「遊び」をする。

 しかし、そうであっても、友達と遊ぶことなく過ごすよりずっといい。