ひったくり | くにこ先生のコーヒーブレイク

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通りすがりのあなたに、心に残るお話をひとつ

 上の娘が血相を変えて、家に走りこんできた。
 秋口の夕方、日も落ちかけた頃である。
 娘は泣きながら身体を震わせている。とにかく、ただ事ではない。

 おかあさん。おかあさん。
 落ち着きなさい。どうしたん?
 ひったくり、ひったくり、かばん、ひったくられた。

 声も震え、かすれてしまっている。
 大学からの帰宅途中、家のすぐ前の道路で自転車の前のかごに入れていたショルダーバッグをひったくられたのだという。
 家の前の道路は、夕方を過ぎるとほとんど人通りが無い。大通りから一歩入ったところにあるこの道は、住宅街の中ほどにあり、知る人ぞ知る近くのJR駅への抜け道として知られているところだ。

 若い男だったという。自転車をこぐ娘の後ろからゆっくりバイクが走ってきた。追い越すのかな、と考えた娘は速度を落とし、バイクが通り過ぎるのを待った。ところが、いきなり後から追い越しざまにかごの中のバッグをひったくり、ものすごいスピードで逃げ出したのだという。

 そのおサイフには小銭しか入ってないのよぉー!! ○▼×☆□*・・・・・!!!!

 動転した娘は、訳の分からないことを叫んで、自転車でバイクを追いかけたのだそうだ。頭の中は真っ白だ。あまりの混乱と動揺でバイクのナンバーも目に入らなかった。家の前の坂道を猛スピードで下りきったところまで追いかけたが、バイクの速さには追いつけない。
 ちょっと止まって後ろを振り返ったバイクの男は、娘が凄い形相で追いかけてくるのを見て、あっという間にスピードを上げ、角を曲がり、そして見えなくなった。
 坂道を自転車を押してかけ上った。どうやって家に帰ったかも記憶には残っていない、という。

 娘の混乱振りに、私も動転してしまった。どうしよう。始めにすることは・・・警察だ。あわてて電話帳で派出所の電話番号を探した。目が泳いで、なかなか見つからない。110番すればいいものを・・・。
 やっとのことで連絡をすると、警察官はみごとに冷静だった。事情を聞き、手配をしてくれる。そして、調書を取るから、派出所に来て欲しい、と言われた。
 少しずつ落ち着いてきた娘と私は、銀行に連絡してカードを止めた。中には何が入っていたの、という話もできた。講義用のテキストとノート、筆記具とカギ、ハンカチとティッシュ、そしてお財布だったのだという。娘が叫んだとおり、お財布には小銭が150円くらいしか入っていなかったらしい。ちょっと恥ずかしいよね、という話にもなった。

 警察では、ことの成り行きを時系列できちんと調書にしていく。「何時何分頃、自転車で走行中、後から来た・・・・」事細かで、ずい分と時間がかかった。最後に警察の人が、調書を確認の為読み上げ、書名と捺印をする。
 警察なんてほとんど前を通り過ぎるだけだったので、こんなことをしていたのか、とあらためて知ることとなった。「見つからないかもしれませんが、何か情報があったらすぐに連絡します。」とのことだった。

 あんなに大変なことしても、お財布見てがっかりだよねぇ。だって、ノートなんていらないだろうし、取るとしたら現金だけでしょ。150円だって。あはは。

 警察から帰るときは、すっかり落ち着いていた。

 とにかく、怪我をしなくて良かった。カバンを肩にかけていたら、引きずられて倒されていたかもしれない。前かごにネットをかけなくちゃ。この後、娘はしばらくの間、バイクが後ろから走ってくるととても怖かったのだそうだ。平気そうに見えても、トラウマになっていたらしい。

 1週間ほど過ぎた頃だろうか。警察から連絡が入った。4キロほど離れた住宅街の中で見つかったのだという。早速、娘と2人でカバンを取りに行った。取られたものは現金のみ。
 お財布を確認した娘は「あ、5円」とつぶやいた。

 150円しか入っていないのを見て、きっと犯人はあまりに可哀想とおもって5円残してくれたんじゃないの。という話になった。


(後日談)
 バイクを追いかけ「そのおサイフには、小銭しかはいってないのよぉ~」と叫んだ時、たくさんの思いが一瞬にして駆け巡ったという。「たすけて~」「きゃー」と声を出そうかと思ったが、この住宅街はお年寄りが多い。助けを求めても、きっと来てはくれない。叫ぶならこの言葉しか思い浮かばなかった、という。
 人間は危機に瀕したとき、一瞬にして思考が駆け巡るというが、本当らしい。