64景 堀切の花菖蒲 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  64景 
 題名  堀切の花菖蒲 
 改印  安政4年閏5月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政4年5月下旬 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-堀切の花菖蒲


 63景「綾瀬川鐘か淵」の描かれた場所から綾瀬川を少し下った場所に堀切村がある。堀切という地名は、城跡を意味する場合が多く、この地も葛西一族の館があった場所と伝えられる。堀切村での菖蒲栽培は、文化年間(1804~18年)に村の百姓伊左衛門が様々の花菖蒲を集めて栽培したのがはじまりとされ、この地の人たちはこの花を江戸市中や花屋に売り歩いて生計を立てた。

 伊左衛門が花菖蒲の栽培を始めたちょうどそのころ文化文政(1804~30年)にはじまった隅田川七福神または向島七福神めぐりでは、近くの多門寺の毘沙門天が選ばれており、徐々に花菖蒲の見どころとしての人気が高まったと思われる。

 堀切村が花菖蒲の名所として名前が出てくるのは、斎藤月岑著「江戸名所図会」(天保5~7年刊行)で、「葛西の辺は人家の後園あるいは田のあぜ道にも、ことごとく四季の草花を植え、芳香常にふくいくたり、土地の人、開花の時をまってこれを刈取り、大江戸の市街や花屋に売り歩いた」とある。
 その後の、嘉永4年(1851年)「東都遊覧年中行事」に堀切村の場所が記されて、「四季の花を作るのを家業としている。一村みなしかり」と記してある。これが江戸の人たちの人気を呼び、花の時期になると舟やカゴでわんさと押しかけたと伝えられている。
現在も「堀切菖蒲園」として健在である。

 広重は、安政4年刊行の絵本江戸土産7編の中で、堀切の花菖蒲を描いている。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-絵本江戸土産 堀切の里花菖蒲
絵本江戸土産 堀切の里花菖蒲


 江戸土産は百景とは違い、近像型構図を用いていない。また人物が描かれておらず、百景のほうが凝った構図になっている。百景と江戸土産の刊行年が同じことや、広重が過去に堀切を描いていないことから、ほぼ同時期に描かれたと考えられるが、順番としては百景が後から描かれたのだろう。

 百景の掲載した絵は色がやや退色しているが、摺りたての絵はもっと鮮やかだっただろうし、花の種類も数種類描き分けられている。この絵は特に外国人には人気が高いそうで、江戸の文化がわからなくても、花だけが描かれているめずらしい浮世絵ということで、受け入れ易いようだ。


 最後にこの絵が描かれた日の推測をしてみよう。花菖蒲は新暦でいうと5月末に咲き始め6月中旬に満開になる。一方、改印のある安政4年は閏年で、閏月が5月であった。旧暦と新暦の日にちを比較すると、旧暦の閏5月朔日が新暦の6月22日にあたる。広重は過去に堀切を描いたことがないので、おそらく改印の直前に描いたのだと思われる。
 斎藤月岑日記から安政4年閏5月下旬で、絵のように晴れで、人々が笠をかぶるような天気だった日を探すと、5月26日から数日は晴れの日が続いており、この辺りで描かれたようだ。

参考文献
江戸名所花暦
和洋暦換算事典
高橋誠一郎コレクション浮世絵〈第5巻〉広重 (1975年)
江戸東京 はやり信仰事典
江戸の日暦〈上〉 (1977年) (有楽選書〈14〉)


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