26景 八景坂鎧掛松 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  26景 
 題名  八景坂鎧掛松 
 改印  安政3年5月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  嘉永3年 

広重アナリーゼ-八景坂鎧掛松


 広重は絵本江戸土産3編で同じ構図を描いている。3編は嘉永3年出版であるので、この絵は江戸土産を使いまわしたと考えられる。さらにさかのぼると江戸名所図会にも鎧掛松が描かれて、松の形や本数が、やや異なるが、その他の構図はほとんど同じである。この絵は図会からの引用ということになる。

広重アナリーゼ-絵本江戸土産 八景坂鎧懸松
絵本江戸土産 八景坂鎧懸松

広重アナリーゼ-江戸名所図会 八景坂鎧掛松
江戸名所図会 八景坂鎧掛松


 3編の説明には何と書いてあるかというと、
「八景坂(木原山にあり。この辺の絶景八ツ見ゆるをもて名とせり)鎧懸松(よろひかけまつ)むかし八幡太郎義家朝臣奥州征伐のとき、鎧をかけたまふといふ。この松六、七丈に及びぬれど、枝をたれて、地より軋五尺を隔つあり。もつともたぐひ稀なるべし。かかる大樹なれども、動かすときは枝葉倶に震う。よつて震松(ふるひまつ)とも名づく」
 解説にもあるように由来は、鎌倉以前にまでさかのぼる。ヘンリースミス氏は、樹齢が800年以上になると疑問を抱いていて、絵では確かに立派だが老松というほどではなく壮健な枝ぶりである。一説には、その木はすでに枯れてしまい、切株だけはしばらくあったとのこと。どこまで真実かわからないが、絵にあるような立派な松がある眺めのいい場所だったのだろう。

広重アナリーゼ-江戸名所図会 鈴の森
江戸名所図会 鈴の森


 絵の真ん中あたりに見える松並木が東海道であり、この辺りは鈴の森と呼ばれる場所だった。図会の中には東海道沿いに植えられている松で1本だけ立派な松がわずかに確認できるが、これが磯馴松なのだろう。広重は図会を描いた長谷川雪旦の巧妙な絵に気付かず、この絵では単に松の並木だけを描いてしまった。

 絵を見ると、旅装している人が多い。また駕籠や馬も見える。東海道を旅する道楽の旅人が道から外れてこの高台に来たか、あるいは池上方面へ向かう人たちであろう。

 この辺りには将軍の鷹場があるが、頻繁に外出する家定公の御鷹屋敷の御成は毎年9月か10月に駒場の鷹屋敷には出向くが、蒲田大森方面の御成は見当たらず、将軍御成に関連した絵であるという想定にも当てはまらない。

 また絵の中で海が見えるが、半島で突き出ている場所に集落が見える。これは品川宿である。この辺りの地形と照らし合わせると洲崎あたりまで描かれていると思われる。その右には船が舫っていて品川沖の大船の泊地のつもりだろうが、距離がありすぎでおかしい。また安政に描かれた絵であるならば、台場がなければならない。広重は現場に行っていないのではないかと思うくらい、さえない点が多々ある。

 さて最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、江戸名所図会や江戸土産からの引用ということで、百景のオリジナルな点が見いだせない。前述したように嘉永7年以降ならば台場があるがそれもない。よって、図会が描かれた日とするのが適しているが、鎧懸松が収められている巻之二の刊行は、天保5年(1834年)にあたるが、図会の附言にあるように月岑の祖父の代から30年余かけて編纂していて、絵がいつ描かれたのか研究者の間でも解明さていない。
 構図上で唯一異なる点は、図会から江戸土産では松の本数が減っている。図会から江戸土産3編(嘉永3年 1850年)までは16年経っており、もしかすると松が枯れたのかもしれない。
 結論として、3編が刊行された嘉永3年に描かれた絵を引用し、図会にあった品川宿を構図に追加して、この絵を仕上げた、とする。

この記事で参考にした本
広重 名所江戸百景
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
江戸名所図会
絵本江戸土産

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