冨岡義勇の故郷 中野区野方 | 徒然探訪録

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■明治後期・大正初期の中野区野方

①中野駅周辺の施設

甲武鉄道が開通し、中野駅が出来ると、駅周辺には1897(明治30)年に陸軍鉄道大隊が転営すると次いで電信隊・気球隊、交通兵旅団司令部等の軍事施設も設置されました。その後電信隊・気球隊は千葉に移転しましたが、交通兵旅団司令部は1922(大正11)年に電信第一連隊と改称し、軍事用の飛行船や連絡用の伝書鳩等の研究・開発を任務としていたと言います。陸軍鉄道大隊が転営し、軍人やその家族が住人となったことは中野駅の北口側が繁華街として栄えるきっかけとなりました。1872(明治5)年に明治政府が国民皆学を掲げた学制公布により、中野にも1875(明治8)年に桃園学校が出来ました。また、1910(明治43)年には豊多摩監獄が中野に移転しており、多くの思想犯が収容された仄暗い歴史も伺い知ることが出来ます。

②大根・沢庵の産地だった冨岡義勇の出身地 野方

中野区野方は鬼滅隊水柱の冨岡義勇の出身地とされています。江戸末期、上・下鷺宮、上・下沼袋、新井、江古田、片山、上高田の各村は野菜類の栽培を主とした農村でした。この村々が1889(明治22)年に合併し、野方村となったのです。1889(明治22)年に甲武鉄道(JR中央線の原型)が開通し、中野駅が開業しました。野方村は近郊農業地域として東京に向けた食糧供給地として重要な役割を果たし、1924(明治13)年には村から町へと発展したのです。大正4年には野方村の6割が農業に従事していましたが、農耕用水に不自由な土地であったため、大方は自家消費の為のもので、品質はあまり良くなかったようですが、陸稲、麦、蕎麦、野菜、豆、芋等を中心に栽培されていました。中でも練馬大根の生産が盛んで、沢庵に加工したものも市場に卸していました。また、非農家戸数は多くなかったものの、直接国税3円以上と定められた選挙有権者数や5円以上とされた被選挙権者が割に高く、農業者の国税納入率は他の職業より高かったようで、貧しい村だったというイメージはあまり湧きません。

③近所付き合い

冨岡義勇の出身地野方では、消防活動は各戸総動員体制で臨みました。野方村役場につながる中央の農道を境に、村民の間では、西側は大場村、東側は新橋村というように暗黙の了解で分けられていたようで、村祭りや葬儀は東西の組合に分かれて実施し、富士・大山講があったため、通常は講中での付き合いだったと言います。

④電灯の設置

大正初期、すでに中野駅周辺には電灯が設置されていましたが、冨岡義勇の出身地野方ではまだ石油ランプを使っていて、夜の出歩きには提灯を使っていました。電灯の設置には電灯会社が設置を渋ったため、野方側でかなりの工事費を負担し、穴掘りなどの作業に協力したりして、やっと設置されたのでした。

⑤冨岡義勇の出身地 野方の四季

四季折々の風景としては、春は妙生寺川でシジミ、タナゴ、鮒、鯰、鰻等がとれ、夏は麦刈り棒打作業、田植え等で多忙な時期。秋は八幡神社の祭礼で昼は神楽、夜は草芝居が催され、こどもたちは境内の出店で玩具菓子を買うのが楽しみでした。冬は北西の季節風が吹き、天気の良い日には富士山や秩父連邦が一望に見渡せたと言います。また冬は1月に大根干しや沢庵漬けの作業が忙しかったため、新年の行事は2月に行われました。農繁期や農閑期という区別がないくらい1年中忙しく、民謡や盆踊り等は根付かなかったようです。明治末期には周辺の藪で狐、大正末期には大川に獺が見られたと伝えられ、このあたりはこどもたちの格好の釣り場・泳ぎ場でタナゴやハヤを釣っていたそうです。現在でも春には妙正寺川沿いに桜が、花公園には八重桜が咲き、それらの花々を見上げるように花大根が花を付け、夏には妙正寺川を泳ぐ鴨、秋には百年いちょうが見事に色づき、野方の歴史を見守ってきた昔ながらの景色が残っています。

 

参考文献:『大和町うるわし 東京都中野区大和町の歴史』 中野区大和区民活動センター運営委員会発行 大和地域 歴史編纂委員会 編集 平成27年