竈門炭治郎の食事情
ー大正時代の多摩・八王子、農村地域の食事情ー
■何を食べていたか
①主食
主食は米、麦、あわ、稗、蕎麦などで、水車で挽いた麦をさらに石臼で粗挽き(挽きわり)にしたもの7合に米3合で炊いたご飯を日常食としていました。挽きわり麦を作るときに出た麦の粉は団子にして、代用食としました。山間部では主食が麦100%だったと言いますから、東京都西多摩郡雲取山に住んでいた竈門家では麦のみを食べていたかもしれません。農村では稗、粟に米、麦を1~2割に大根、カブを混ぜ、嵩増して炊いたこともあったようです。
また、米、麦、あわを混ぜて炊いたものを三色飯と呼び、もう一つの主食はいも類で、えごいも、さつま芋、やつがしら、里芋などが食べられていました。さつま芋は乾燥して粉末にしたものをさつま団子にして食べたりもしました。
②もしもの為の保存食
稗は飢饉の時などの為に保存していました。
③副菜
副菜は畑で採れた大根、人参、ごぼう、里芋、なす、さつま芋、きゅうり、さんとう菜等で作り、豆腐、油揚げ、こんにゃく、いわしの丸干し、目刺、干物、塩鮭、塩鱒等も食材として使われましたが、魚は乾魚品が主で、卵や肉はほとんど食されていなかったようです。
④調味料
調味料としては塩、醤油、砂糖、自家製の味噌が用いられていました。
⑤味付け
恩方(八王子)では麦1斗、大豆1斗、塩1斗で作られ、都会に比べ、甘目の味付けの味噌を作っていました。八王子から雲取山のある奥多摩まではだいたい100㎞程ありますが、都会よりもこちらに近い味のものを食べていたのではないでしょうか。
⑥食事の回数
朝飯、昼飯、夜飯の1日3回で、間食は午前10時と午後3時の2回でした。午後3時の間食に関しては春の彼岸から秋の彼岸までの間だけしていたようです。
⑦献立
献立は味噌汁、野菜の煮つけに漬物が主でした。
⑧春の献立例
重労働の季節の為、比較的しっかり食べます。朝食は麦飯、大根の味噌汁、大根おろし、白菜漬、茄子の味噌漬。昼は麦飯、焼き鮭、たくあん、きゃらぶき(ふきの佃煮)。間食は花草団子(よもぎ団子)、味噌の焼きおにぎり、たくあん、梅干。夕食は煮込みうどん、ごぼうのきんぴら。
⑨夏の献立例
朝は麦飯、味噌汁、きゅうりの糠漬け、デザートに酒饅頭。昼は麦飯、ひりゅうず(がんもどき)、里芋の煮付け、胡瓜もみ、茄子の糠漬け。間食には茹でとうもろこし、茹でまんじゅう、漬物。夕食は小豆ご飯、鮎の煮付け、豆腐のすまし汁、小松菜の胡麻和え、胡瓜の糠漬け。
⑩冬の献立例
朝は麦飯、小松菜の味噌汁(小松菜、大根、ねぎ、里芋入りおみおつけ)、漬物(白菜、沢庵)。昼は麦飯、焼き目刺、漬物。間食にはたらしやき。夜は手打ち煮込みうどん、夜食に焼いたさつま芋、蕎麦がき。たらしやきとは、小麦粉に味噌、細かく刻んだねぎや青じそを加え、水で溶いたものをこんがりと両面焼いたものです。お菓子があまりなかった時代、埼玉県の秩父地方中心(雲取山から秩父まではおよそ40㎞)に農作業の合間の間食やおやつとして食べられていました。炭治郎の好物のタラの芽を刻んで入れてもおいしそうですね。
⑪食器
箱膳を使うことが主流だったようです。箱膳の中にはご飯を入れる用と汁物を入れる用の茶碗2個と箸が入っていて、食事の際には蓋を返して膳として使用しました。汁物には木椀を使うことが本来ですが、ほとんどの家では汁物を入れるのにも茶碗を使用していました。食べ終わると茶碗に湯茶を入れてゆすぎ洗いをし、その湯茶を汁用の茶碗にも入れて同じようにゆすぎ洗いをしたら、最後にその湯茶を飲み干して箱膳の中に伏せて戻します。今のように水をふんだんに使えなかったこの時代はきちんと食器を洗うのはひと月に数回が普通でした。お弁当箱は曲げわっぱが使われ、麦飯をぎっしり詰めて、なめ味噌やお新香を入れ、少し豪勢だと焼鮭等が付き、野良仕事にこれを持って行って、2回に分けて食べていました。お弁当の箸はアカンボという堅木や粟の小枝を使い捨てにしていました。食器の購入は炭治郎が町に炭を売りに来たときに家族の分も一緒に購入したとするのが自然に思われます。
⑫飲み物
貧しい食事で一日中きつい肉体労働をしなくてはならないこともしばしばでしたので、腹の足しとしてお茶は良く飲まれていました。また、お酒に関しては今のように晩酌として飲むことは少なく、農作業の芒打ちや力仕事の後に焼酎等を飲みました。一升瓶が出回るようになったのは大正時代です。
参考文献:第9回生涯学習サロン・特別講話 9K10
『八王子・多摩の食文化について』 講師:ふるさとの食を拓く会代表星野厚子
『大正期はじめにおける農村地域の食事調査の分析について』 上原里美著
多摩の歩み第49号『幕末・明治の食器ー農村を中心にー』 米川幸子著