矢河原の渡し跡があります。
▲矢河原の渡し跡付近の景色
小金道の一部となっていた公営の渡しで、新撰組が来流時に利用したとも言われています。
流山寺にも新撰組隊士が分宿したと言われています。
赤城神社や光明院も目と鼻の先です。
主に北関東からの物資集散などで賑わいをみせたと言われています。
呉服店「ましや(増屋)」は江戸末期の安政六年(一八五九年)の創業であり、その以前は酒造業を営み、文政一一年の記録が残っております。
店舗部分は関東大震災(一九二三年)当時までは江戸時代以来商家としては
一般的であった軒を大きく前に出した「出桁造」でありましたが、
防災及び街路の拡幅のため、当時流行の洋風を取り入れた、いわゆる「看板建築」様式に改造されたものであります。
この様式は東京下町で多く見られましたが、現在は急速に減少しつつあります。
切妻造りの「土蔵」部分は明治三年に建てられたもので、流山本町地区(旧・加岸、加台、根郷、宿など)において
現存する最古の土蔵の一つであると云われております。尚、蔵内上部梁には左記の墨書が残っています。
上棟 明治三年 午 八月
左官 丑五郎 大工 権次郎 留吉 亀次郎
石工 藤吉 鳶 安五郎 勇吉
(ましや案内板より転記)
元は足袋屋だったとのことですが、現在は大正十二年改築の店舗をリノベーションしたお洒落な創作イタリアン・フレンチのお店になっています。
弘化三年(一八四六年)創業で、現在の建物は明治二三年(一八九〇年)に建てられたもの。
恵比寿と大黒の鬼瓦が特徴的です。
幕末時には新政府軍が境内裏に陣を敷いていたと伝えられています。
御神体木花開耶姫の火中での出産に因み、安産・子育て・縁結び・家内安全の御加護があると言われています。