流山にある新撰組関連の地① | 徒然探訪録

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流山にある新撰組関連の地を歩きます。
 
 
▲赤城神社
新撰組隊士が分宿したと伝えられています。
群馬の赤城山が噴火し、土塊がこの地に流れ着いた為、「山が流れてきた」ということで、
「流山」という地名が付いたと言われています。
 
 
▲光明寺
赤城神社と地続きになっていて、こちらにも新撰組隊士が分宿したと伝えられています。
 
 
 
▲光明寺の「新撰組隊士分宿の寺」の看板
 
 
▲長流寺
平成31年4月14日(日)に近藤勇忌が執り行われました。
 
 
長流寺の参道には、時期になると梅の花が咲きます。
 
 
長流寺の境内には樹齢400年を超える大銀杏があります。
幕末の景色も見続けてきた歴史のある大木です。
 
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江戸川の土手に上がらず、光明寺沿いの小径を進むと、
キッコーマン流山工場が見えてきます。
 
 
白壁風の外壁が続きます。
 
 
▲近藤勇陣屋跡の目印になるフジフィルムの看板
 
 
向かい側に看板があります。
 
 
画面奥が流山駅で、二つの看板の位置はこんな感じです。
 
 
▲秋元稲荷大明神
新撰組到着陣立ての際、近藤勇、土方歳三らが戦勝祈願をしたと伝えられています。
 
 
▲近藤勇陣屋跡
文久三年春以来京師にあつて勇名を馳せた新撰組は慶応四年正月
鳥羽・伏見の一戦に敗れて江戸に帰り新たに甲陽鎮撫隊を結成、
同三月甲州路勝沼に出陣して官軍と交戦、これまた敗れて総州流山に再挙をはかった。
当時の流山は水陸交通の要衛、醸造業の地として知られ、
各種問屋、船宿、旅籠等軒をつらね本多氏下総領管理の
「加村役所」も加村台にあつてその繁栄は近隣に比すべきものがなかった。
ために江戸を脱出した幕兵のこの地を慕つて屯集する者、また数を知らなかった。
甲陽鎮撫隊は三月二十日ごろ流山に入り、酒造家長岡屋(当所)を本陣とした。
日増しに傘下に加わる同志隊員を諸家に分宿させ、
旬日にしてすぐに一大勢力となつていた模様である。
一方、官軍においては、その東山道軍先鋒隊の一部が結城方面の鎮圧に向かう途次、
この風聞を耳にした。直ちに香川敬三指揮する一隊流山に来攻、
策を以て隊長近藤勇(大久保大和と変名)を誘い縛に就かした。
時に慶応四年四月三日の夕刻である。
一説に、近藤は、兵災の郷民に及ぶことを憂い、
みずから敵手に身をゆだねて決戦を避けたという。
老松古雅に往時を偲んでここに遺跡の石碑を建てる。
                        昭和五十一年三月  流山観光協会
                             (近藤勇陣屋跡石碑より転記)