ことしも梅雨の季節を迎えた。この春訪れた片照・片降の不順な天候は、これまでにも季節を選ばず数年ないし10数年おきに回って来ては、人々をうんざりさせてきた。
昭和30年代の中ごろまで、日野市のほぼ全域が、水稲耕作を主とする純農村であったことは人々の記憶に新しい。この時代にもしも前記のような異常気象が、それも6月の田植えどきに訪れたなら、それが片照・片降のいずれであっても、農作に及ぼす影響は計り知れないものであったろう。ここでは、日野で起こった旱魃【かんばつ】と旱害のあらましにふれてみたい。
農作物に被害を与えるほどのひどい旱魃は、江戸時代の記録にもしばしば現れる。平村(南平)の名主清水兵左衛門家に伝わる歴代の記録(『八王子中市相場附』)もその一つである。これには、天明(1782年~1789年)・文政・天保(1818年~1844年)各期の凶作飢饉【ききん】の年に平村の人々がどのようにこれに対処したかが記されている。これによれば、ワラや木の葉、草までを食べ、村々の雨乞【あまごい】が何回となく繰り返されたとある(『市史余話』参照)。高幡村にも同様な史料(高橋通夫家文書「記録」)があって、これらの災害が浅川以北を含む広範囲のものだったことが分かる。
古来、多摩川・浅川の流水はこの地方の稲作の死活を握っていたと言っても言い過ぎではなかろう。川沿いの村々ではそれぞれに用水組合を結成して、堰【せき】からの取水を稲作期の優先事とした。旱天が続けば両川には渇れの兆が現れ、取水量は減る。各用水組合では、互いに話し合って厳しく用水を配分した。用水の奪い合いから、個々の水番が紛争(水喧嘩=みずげんか)を起こすのもこの時期である。旱天が長引くと用水の配分調整も絶望となり、ここに雨乞の議が起こった。人々はこれまでも水への敬虔【けいけん】な敬いの気持ちから水神を祀【まつ】ってきたが、用水の枯渇を目前にして、だれもがこの神にすがる決心をしたのであろう。
落川の五十子敬斎の日記には、明治28年(1895年)6月22日に七生村東部の高幡・百草・三沢・落川の四字が各字ごとに鎮守の社前で雨乞をしたと記されている。また、大正8年(1919年)6月22日には、この四字が合同して高幡で雨乞を行い、23日には榛名山(群馬県)まで祈願に出掛けた。25日には、高幡橋南詰西側の取水堰で再度の雨乞が行われ、四字200人が集まる大掛かりなものであった。同じ時、浅川北側の新井などの各部落でも雨乞があったと伝えられている。
新選組の副長として名高い土方歳三は、天保6年(1835年)、石田村(現日野市石田)の旧家土方義諄の6人兄弟の1人として生まれた。当時石田村は家数13~14戸、全村が土方姓であった。中でも生家は村で大尽と称され、農業の他に打ち身やくじきに特効ありと伝えられている「石田散薬」の製造販売もしていた。
歳三13歳の弘化3年(1846年)は、雨の日が多く、特に6月に入ってからの30日間は、雨を見ない日は2~3日に過ぎなかったという。このため、多摩川は増水し、日野の渡船はほとんど止まった。堤防も決壊し、万願寺や石田一帯は大洪水に見舞われた。
そのころ、とうかん森(新井49)の東方にあった土方家も、6月末の洪水のため土蔵と物置が流され、ようやく母屋だけは洪水のさ中、駆け付けた近隣の人々の手によって解体され、大半の材木が残された。この材木を活用して300㍍ほど西方の所に再建したのが、昨年5月まで残されていた歳三の生家であった。
歳三生家の概観
歳三の生家は敷地389坪(約千280平方㍍)の広さを持ち、かつては長屋門も東南側にあったが、昭和の初め立川方面の火災で家を焼失した人に譲ったとのことである(故土方康氏談)。また、「石田散薬」の製造所跡が母屋の南側に残されていた。
屋敷の西側には防風のための屋敷林としケヤキ、カシ、竹などが植え込まれ、北裏の竹林には「石田散薬」の製造所があった(歳三没後南側に移された)。屋敷にはほぼ南面、土蔵が配され、東部は農作業のための「ニワ」になっている。なお、裏鬼門の方角の庭隅には、屋敷を守る稲荷【いなり】が祀【まつ】られている。
小屋組は入り母屋の平屋造りで、取り壊す前は茅葺【かやぶ】きの上をトタンで覆っていた。このトタンは70年ぐらいに葺いたというから、当時としては珍しい景観を見せていたと想像される。
平面配置の様子
当家の平面配置は、日野市域の標準的な民家から見ればかなり各室が不整形に配されている。建築当初から農業も薬の製造もやっていたことから、通常の農家とは機能上間取りが違っていたと考えられる。
明治以降、たびたび改築されてはいるが、母屋全体の規模は当初よりさほど変わっておらず、多摩地域の他の民家と比べ、かなり特異な平面配置を持つ建物であったといえる。
(市史編集委員 池田和夫)
『共同田植えとワイ談
太田植えつまり共同田植えであると、十数人の早乙女が一列に並んで作業を始めるから、お互いに競争心理もあるし一人だけ休止するわけにはいかぬので、つかれをまぎらわせるために、いろいろとワイ談をしたりやったりして周辺の人たちを笑わせ元気を出させる。
これは男も女もきつい労働作業では同じことで、君に忠、親に孝などのはなしができるわけがない。まあ、殆んどは夜這いばなしや、ムラの若い衆たちの評判から、あの物が長いの太いのということになり、なかには若い衆のとり合いにからんで泥水のかけ合いをやった。たいてい若い衆がナエモチ、ナエウチをするが、ナエがとどかないなどといって若い衆を困らせたり、田の中へ連れ込んでせめるのもある。その間に一休みできるからで、わかってみればなかなか面白い。
ナエモチは十二、三歳のコドモが多いが、かわいい子であると田の中へ引き入れてマタへ手を入れたり、自分のマタへ手を入れさせびっくりするのを楽しむ。田の神さまは水に映る女のものを見て喜ぶというムラが多く、ほんとに水に映るのかと聞いたら、来て見んかと誘われて行くと、娘や婆は行儀が悪く内またまでは映るが、奥まではムリである。まあムリに映るような姿勢にすれば、できないこともない。若い娘や嫁になると腰巻が開くほどマタをひろげないので殆んど映ることはなかろう。だいいち次から次へと動いて植えて行かねばならないので、田の神にゆっくり鑑賞させるような暇はない。といって真面目な顔をしていてはつかれるし、仕事もはかどらないからワイ談だけは相当高度なもので、とても筆にできるものでないということになる。といっても夜這い世代で、ムラの男や若い衆たちと性的経験を共通にしているので一言、二言でも通じ合うから面白いので、それがわからない者には半分も通じない。唄もワイセツなものが多いが、女たちのシャベクリは、はるかに激しいものである。そんなことで田植えがすんで畦へ上がると、男とみだらにだきつきたくなるほど興奮することもあるそうだ。
山の間や谷がけの田であると、ナエウチのコドモや若い衆を引き入れて強姦ということになる。そんな年は、稲がよくできるといって喜ぶムラもあってさまざまであった。
(夜這いの民俗学・夜這いの性愛論 赤松啓介著 筑摩書房)』