『茶摘み
夏も近づく 八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは 茶摘みじゃないか あかねだすきに 菅【すげ】の傘【かさ】…以下略
明治45年(1912年)に制定されたこの小学唱歌は、大正・昭和と長く歌い継がれ、手合わせ歌として女の子たちには特に愛唱された。戦後、農家から茶摘みの姿が見られなくなって、この歌も次第に歌われなくなってしまった。
昔は日野でも、農家には必ずどこの家にも、茶のくね(垣根)が家の周りや畑の畔【あぜ】に巡らされていた。毎年八十八夜を迎えると、苗代作りなどと共に茶摘みの準備が始められた。5月10日ごろから茶摘みが始まり、その家の女衆や近所の手伝いの女性たちでにぎやかであった。
収穫した茶葉は、焙炉【ほいろ】を作って自家製茶をする家もあったが、なかなか難しい作業であったので専門の製茶業者に頼んだりした。農協が出来てからは、一括して製茶工場に頼むようになった。
自家製茶に使う焙炉は、丈夫な和紙を幾重にも張り合わせて四角の盆形にしたもので、反古【ほご】紙を用いた。製茶のために失われた古文書【こもんじょ】はばく大な量にのぼったのではないかと、今となっては惜しまれる。
日野市域に関する資料の中で茶について書かれた一番古いものは、先ごろ国の重要文化財に指定された「高幡不動胎内文書【たいないもんじょ】」であろう。これは山内経之【やまのうちつねゆき】という南北朝時代の武士の手紙が主であるが、この中に高幡のお寺に茶を所望するという記述が見られる(14・37号文書など)。このころ高幡不動で茶が作られていたことが分かる。
栄町遺跡などからは、中世のものと思われる茶臼【うす】・天目茶碗【わん】・茶入れなどが出土している。この地には、戦国時代末期に小田原の北条氏に仕え、日野本郷を知行していた竹間加賀入道【ちくまかがにゅうどう】の墓もあり、関連をうかがわせる。茶臼は江戸時代のものも出土している。
『河野清助日記』の明治3年の3月から4月にかけての項に、1万本余の茶苗を植えたという記事が見え、以後茶摘みや製茶の記述がある。明治8年6月1日には「茶製シマヒ日待」を行ったという記述もある。
『五十子敬斎日記』大正12年5月14日の項には、製茶をしたが思ったほどの量ではなかったという記述がある。
生の青葉から茶になる時の量の少なさは、作った者でなければ実感が分からないかもしれないが、茶摘みは季節の風物詩として、楽しみなものであった。
お茶がなければ いやの谷
ああお茶を摘むなら 湯谷へござれ よいしょ
煎茶元祖の お茶を摘む
ああお茶を摘むなら すそから摘みやれ よいしょ
今年出た芽は みな摘みやれ
ああ かたい約束 茶園の中で よいしょ
お茶が切れても 縁切れん
ああ、お茶の摘みちん さきまわりしても よいしょ
とれた主さんにゃ 不自由ささん
ああ、今年これきり また来年の よいしょ
八十八夜の お茶に会う
ああ、お茶がすんだら 早うもどれよと よいしょ
言うた親より 殿が待つ
ああ、宇治でもうけて 田原でつこて よいしょ
花の朝宮で 丸裸
ああ、嫁入りするなら 田原へおいで よいしょ
田原よいとこ 米がある
あら おしゃれは さをおやぁ
ああ、暑けりゃ 笠きよう いろ黒くやけなあ よいしょ
都住まいをさす程に
あら おしゃれは さをおやぁ
茶摘みしてては ようやしなわん よいしょ
あなた ほいろし しておくれ
恋しい恋しいと 鳴く蝉よりも よいしょ
鳴かぬほがるが 身を焦がす
『かたい約束 茶園の中で』
『お茶が切れても 縁切れん』
『恋しい恋しいと 鳴く蝉よりも 鳴かぬほがるが 身を焦がす』
このように、茶摘み唄には、茶摘みに従事する娘と村の男との交流を匂わせる歌詞もあったりします。新緑の頃、他家の畑を逞しく渡り歩いた茶摘みの早乙女達は、村の青年たちは言わずもがな、商家勤めの女性を知った歳三の瞳にも魅力的に映ったことでしょう。