土方歳三 牛額草の刈取りを仕切る | 徒然探訪録

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 『 日野の新選組 土方歳三(二)
 歳三は、十八歳になったおり、上野広小路松坂屋へ奉公に行った。この奉公は、歳三の意思か、兄や周囲の人の意見か明らかではないが、農家の四男坊の将来を考えての奉公であったろう。
 しかし、当時としては、年齢的にも少しおそいこの奉公も、前回同様長続きはしなかった。現存する写真を見てもわかるようにハンサムな青年歳三は、同じ店にいた女中の一人と恋仲になり、ほどなく女の体調の変化を知って生家へ逃げ帰ってきた。この時は兄の喜六や義兄の佐藤彦五郎らに強く叱責され、その夜のうちに江戸へ戻り、この一件をすっかり始末して帰郷している。
 以後歳三は、江戸へ奉公などということは一切口にしなかったという。
 生家に帰った歳三は、兄を助けて農事をするかたわら、家伝の石田散薬を武州一円はもとより、相州方面まで足を伸ばし売り歩いている。
 土方家に伝わるこの石田散薬は、多摩川の水辺に自生する牛革草(葉は正面から見た牛の顔に似て、茎が赤い。通称みぞそば)を土用の丑の日に採集し、これを陰干しにして乾燥、貯蔵しておき、必要に応じてこれを黒焼きにして細かい「ふるい」でふるってその粉末を薬として販売したもので、酒で服用すると、うちみ、くじきに特効があり、土方家の当主のみにその製法が伝えられ、昭和初期まで製造販売されていた家伝薬である。
 土方家では、土用の丑の日の牛革草の採集が年中行事となっていて、明治末頃まで石田村中の人々が動員されてこの草の採集にあたった。
 歳三もこの採集に参加し、時々兄喜六に代わり、採集する人たちの指揮にあたることがあり、歳三が指揮にあたると作業が順調に進み、その指揮ぶりは、後年新選組を強力な集団に作りあげた歳三の天分ともいえる統率力が、このころから人目をひくものがあった、と言い伝えられている。
 このころ歳三は、余暇を見つけては、親類である谷保村の本田家に通い、漢字や米庵流の書道を学んでいる。
 この米庵流書道は、幕末に江戸の書家市河米庵が創始した書法で、本田家に伝えられ覚庵、退(苔)庵、石庵、谷庵と引き継がれ現在に及んでいて、幕末、明治、大正頃まで日野にも佐藤俊宣、有山彦吉、有山亮氏ら、この米庵流を学んだ人が多かった。
筆者:谷 春雄
原稿: 広報ひの昭和58 年 10 月 01 日号より転載』

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『牛額草刈り取りの指揮
 歳三は、十代の頃、石田散薬の原料となる薬草・牛額草の刈り取りの指揮をよく任されたそうだ。
 牛額草は、浅川の河原、河原といっても本当に水際の辺りに自生していて、それを花が咲く前の土用の丑の日に刈り取るという慣わしだった。乾燥させて黒焼きにし、精製すると最終的な目方は何十分の一にも減ってしまうので、刈り取る草の量たるや膨大なもので、村中総出で一日がかりの大仕事だったという。
 ただ、歳三は男衆女衆の配置や仕事の段取りが実に上手で、歳三が指揮をする日は仕事が早く終わると評判だったと伝わっている。人を動かす天賦の才は、故郷にいた頃からのものだった。
  【子孫が語る土方歳三  (新人物往来社  土方愛著)】より』

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  牛額草の刈り取りは村総出の仕事だったとのことですから、男女問わずきつい作業であったことは間違いないわけで、やはりそれをやり遂げた暁にはそれなりの御褒美がなければ作業も進まなかったことでしょう。きつい作業の合間にも、猥談で笑い笑わせ、疲れを紛らわしたり、若い子にちょっかいかけてからかったり。土方歳三は、そんな事情や村の人間関係を良く心得て、ただの猥談で終始し、楽しく作業出来る男女に同じ仕事を与えて作業が滞らないように工夫したり、他より大変な仕事を引き受けてくれた者には、上手に秘密の御褒美を与えたりしていたのではないでしょうか。

参考文献:『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論 』赤松啓介著   筑摩書房
『子孫が語る土方歳三』 土方愛著  新人物往来社