歳三氏の童○事情はたぶんそんなところだったかと思いますが、奉公に出てからはどんな生活を送っていたのでしょか。
■どんなところに奉公に出ていたの?
老舗百貨店松坂屋の前身にあたる大きな呉服屋に奉公に出されたと言われています。初めて奉公に出た時には鶴店と呼ばれた上野店で、出戻って再び奉公に出された時には伝馬町に新設された綿花、綿糸、綿布を扱う支店の木綿問屋(亀屋)で働いていたようです。2度とも同じ松坂屋系列の商家に奉公に出されたようですが、2度目の奉公先が上野店ではなく、恐らく上野店より格下だったと思われる支店になっているのは、最初の奉公は上司と喧嘩して辞めてしまったようなので、そのペナルティとしてだとか、あるいは店の人間関係を配慮してだとかそんなところでしょうか。
■奉公先ではどんな仕事をしていたの?
丁稚1年目の仕事は、主に店のたばこ盆や灰吹、火鉢、大八車の掃除などだったそうです。この年頃の丁稚たちは、掃除全般、水汲み、薪割り、風呂焚きといった雑用をこなしながら、目上の者に対する挨拶の仕方や行儀といったものをたたき込まれていきました。これらを見る限り、一に掃除、二に風呂炊き、三四がなくて五に掃除といった生活を送っていたように思われます。彼が従事していたであろう業務内容を想像するにあたり、もう頭に三角巾をして、はたきをかけている歳三氏の姿しか思い浮かべることが出来なくなってしまいました。
■奉公先ではどんな食事をしていたの?
丁稚の食事は、朝食は麦飯に漬物、これに味噌汁が付いたり付かなかったり、昼食と夕食には、麦飯と漬物にちょっとしたおかずが付きました。おかずは味噌汁や比較的安価な油揚げ、ひじきの煮物などで、魚が付くのは月に1・2度くらい。江戸時代に書かれた『幕末百話』という本によれば、丁稚の食事、朝は365日毎日味噌汁だけで、昼は特売日だと魚がつくこともあったけれど、夜は漬物だけだったと言います。食べざかりであったろう歳三少年にとっては少々物足りない食事情だったのかもしれません。
■奉公先では、日中の勤務が終わってからは何をしていたの?
閉店後も番頭さんや手代さんから読み書き算盤等、商人となるのに必要な素養を習い、ひたすら勉強の日々だったようです。商家に勤めると基本的には朝7時から夜7時の勤務だったようですが、丁稚ともなると先輩たちよりも朝早くに起きて雑用をこなさなくてはなりませんでしたし、押しつけられた雑用や後片付けが深夜にまで及ぶこともあり、1日14~16時間あるいはそれ以上働かなくてはいけないこともありました。就寝時間になっても、この頃は夜這いの習慣がありましたから、先輩の奉公人に誘われれば断りづらいですし、そんなこんなで寝ることもままならない日もあったかもしれませんね…。最初の奉公で、歳三が先輩の奉公人に男色を迫られて逃げ出したというような説もあるのは、このような当時の性事情からかもしれません。下っ端の奉公人は、それが異性だろうが同性だろうが、新入りにちょっかい出すくらいしかストレスを発散させるところもなかったので、実際そういったこともあったようです。ちなみに2回目の奉公も女性関係のトラブルで続かなかったようですが、これもやはり当時の商家にあった夜這いの文化を踏襲して女性と関係を持ってしまった結果だったのではないかと考えています。
閉店後も番頭さんや手代さんから読み書き算盤等、商人となるのに必要な素養を習い、ひたすら勉強の日々だったようです。商家に勤めると基本的には朝7時から夜7時の勤務だったようですが、丁稚ともなると先輩たちよりも朝早くに起きて雑用をこなさなくてはなりませんでしたし、押しつけられた雑用や後片付けが深夜にまで及ぶこともあり、1日14~16時間あるいはそれ以上働かなくてはいけないこともありました。就寝時間になっても、この頃は夜這いの習慣がありましたから、先輩の奉公人に誘われれば断りづらいですし、そんなこんなで寝ることもままならない日もあったかもしれませんね…。最初の奉公で、歳三が先輩の奉公人に男色を迫られて逃げ出したというような説もあるのは、このような当時の性事情からかもしれません。下っ端の奉公人は、それが異性だろうが同性だろうが、新入りにちょっかい出すくらいしかストレスを発散させるところもなかったので、実際そういったこともあったようです。ちなみに2回目の奉公も女性関係のトラブルで続かなかったようですが、これもやはり当時の商家にあった夜這いの文化を踏襲して女性と関係を持ってしまった結果だったのではないかと考えています。
参考HP:『江戸散歩』
参考文献:『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』 筑摩書房 赤松啓介著