土方歳三のルーツが三沢十騎衆らしいというようなことは、土方愛さんもいつぞやの公演でおっしゃっていましたが、歳三氏に、三沢十騎衆を配下とした氏照公を重ねてしまう現象が自分の中で度々起きたりで全く困ったものです。
『日野の歴史と伝説 三沢十騎衆
戦国時代の終わりごろ「三沢十騎衆」という地侍が活躍していたようです。
高幡の土方義春家文書のうちで、三沢衆文書8通が、日野市文化財古文書第2号として指定されています。
その中の1通は、多西郡三沢村に対して、天正18年(1590)豊臣秀吉が治安確保のために発した禁制ですが、4通はそれぞれ土方弥八郎・同平左衛門・同善四郎・同越後と故人の宛名になっていて、3通は三沢衆・十騎衆(上写真)・三沢と集団あてに書かれています。
土方越後あての1通は、秀吉の武将大田小源五からのもので8月7日とあり、年は記入されていませんが天正18年と思われ、南河辺郷衆に対して「今日中に出て来い。」という出頭命令のようです。
その他6通の文書は、天正6年小田原北条氏政の全盛期から滅びるころまでに出されたもので、三沢十騎衆などの下級武士に対し、「よくやったぞよこれからも走りまわって忠節を励め。」「武器をとり、小旗を立てて、きらびやかにし、しっかり働けよ。」とか、終りごろには、「男でさえあれば、だれでも動員しろ。」などという、北条氏照をはじめ、その部将からの督促状のようです。
この十騎衆も、天正8年には八人衆だったようですが、小田原が滅びた後の南河辺郷衆や、新編武蔵風土記稿に書いてある上田村の平野紋弥の先祖という川辺七郷十騎などと、どのような関係にあるのでしょう。 筆者:文化財専門委員 土淵英夫原稿: 広報ひの昭和47 年 02 月 15 日号より転載』
『北条氏照のことば(一)
四百年前に死んだ人の〝話しことば〟を知るよしもないので、ここでいう北条氏照のことばとは、彼が文書【もんじょ】に残した〝書きことば〟についてである。
氏照は、小田原後北条氏第三代氏康の次子で、天文九年(一五四〇)生れ、後北条に降伏した山内上杉氏の旧臣大石定久の家を継ぎ、滝山城主・八王子城主となり、父氏康・兄氏政・甥氏直を扶けて関東征覇に力を尽した。
原本や写しの形で現在に伝わる氏照の文書は一七八通である(下山治久『北条氏照文書集』)。日野市日野佐藤君子氏所蔵天正十四年(一五八六)三月の「竹木伐採禁制」(印判状=『史料集古代・中世編』資料一二六)や、高幡土方義春氏所蔵永禄九年(一五六六)十一月「甲【かぶと】立物装備令」(印判状=資料一二〇)など五通もそのうちにふくまれる。
「竹木伐採禁制」は、当郷において、竹木を切る儀、停止【ちょうじ】せられおわんぬ。誤りても一本なりとも切るものこれあるについては、従類共にはり付に懸けらるべき旨、仰せ出さるるものなり。よって件のごとし。
丙戌
三月九日 日野惣郷ならびに 立川領東光寺 堺より谷・町屋迄 平野豊後守 福島右近 竹間加賀入道とあり、日野惣郷においてたとえ一本でも過失で竹木を切ったならば、本人はもちろん「従類」ともどもはりつけにかけるという。氏照の発給文書は威圧の文言【もんごん】がきわめて多いが なかでもこの禁制は、その最たるものであろう。
(付記)『日野市史史料集 古代・中世編』二二二頁・二二三頁所収「竹木伐採禁制」の宛所平野豊後守を、編者の不注意で平賀豊後守と誤読しています。紙面をかり、お詫びして訂正します。
筆者:高島緑雄
原稿: 広報ひの昭和56 年 09 月 01 日号より転載』
『北条氏照のことば(二)
北条氏照が三沢衆にあてた天正八年(一五八〇)閏三月の「陣触れ」(注)は、土方弥八郎を滝山宿に待機させ、命令に従わない場合は「越度【おちど】」に処し「過失」にかけると言っている。文言【もんごん】が非常に厳しい。
一般に戦国大名が家臣や庶民に命令を守らせようとするとき、もし違反するならば、「罪科」・「厳科」に処し成敗すると威圧するのであるが、氏照のことばづかいは一頭ぬきんでているようである。
ここで若干の例を紹介してみると、次のとおりである。
〇永禄五年(一五六二)十一月 西岩沢等三か郷百姓陣夫拒否=「刎【はね】」
〇永禄七年十一月 長田郷等百姓逃亡=「刎首」
〇永禄九年六月 来住野大炊助軍役怠慢=「打捨」
〇天正六年(一五七八)十月 並木弥三郎城番怠慢=「切腹」
〇天正七年八月 江島浦にて百姓・猟師密猟=「切頚」
〇天正十一年五月 新田弥七郎軍役怠慢=「切腹」
〇天正十二年二月 若田宮内軍役怠慢=「切腹」
〇天正十六年正月 大久野村番匠逃亡=「死罪」 西戸蔵百姓軍役拒否=「死罪」
〇天正十八年二月 高尾山竹木伐採=「従類共にくびをきらせらるるべし」
こうしてみると、罪科文言が武士と庶民とでは区別されていることに気づく。武士は「打捨」と「切腹」であり、百姓・職人・猟師などの庶民に対しては「刎首」=斬首刑である。
この区別が何を意味するかはかなり重要な問題と思われるが、一面では北条氏照の滝山・八王子城領支配の実情を反映しているかもしれない。
とまれ、家臣を「切腹」で威圧していた氏照が、後北条氏が豊臣秀吉に降伏する際の条件として、兄氏政とともに切腹して果てたのは歴史の皮肉である。
(注)土方文書=「史料集古代・中世編」資料一二一 筆者:高島緑雄 原稿: 広報ひの昭和56 年 10 月 01 日号より転載』
このような文書から鑑みるにあたり、氏照公の中々に苛烈なご様子が、北関東以北で奮戦する歳三氏の姿に重なるのです。早いもので、もう梅の花開く季節、血梅もきっと今が見頃でしょう。新選組ゆかりの地日野にあり、近藤勇の血梅にまつわるエピソードが残る『ちばい』の根菜そばは、この時期日野に行くなら一番のおすすめです。