土方歳三が奉公に出ていた前後のことが気になりまして、ちょっと調べてみました。
土方歳三は、13歳の時に奉公に出されたようですが、豪農の家なので、一応元服といいますか、それに準ずるものを区切りに奉公に出されたのだと思うのです。昔の農村はムラ社会が形成されており、土方歳三もそのような枠組みの中にあって、ムラ社会における年齢階梯制度にも属していたのではないでしょうか。
ムラの年齢集団は①子ども組…7~15歳くらい、②若者組…15歳~結婚まで、③中老組…結婚~60歳の還暦まで、④年寄組…還暦~、というような構成だったようです。
『ひの・史跡・歴史データベース』でこんな記事を見つけました。
『日野のサイノカミ(どんど焼き)今・昔
サイノカミは、サイトヤキ、トンドなどとも呼ばれる小正月の火祭り行事です。東日本では道祖神の祭りと結びついて行われることが多いのですが、祭りのやり方はそれぞれの地域で異なります。災いを祓い、人々の健康を願いました。日野市域では、最近はどんど焼きと呼ばれることが多いようです。
元々は子ども中心の行事で、子ども組と呼ばれる7~15歳位の子どもが七草を過ぎると、各家から門松や正月飾りを集めて回りました。このとき一緒に餅・米・みかん・賽銭などを貰います。「セーノ オコメニ オショウユニ オカネニ オマキニ オモチニ ドッサリクレヤ (干支)コーヤイヤイ」などという唱え言葉を囃し、貰えない家には「オンベラボウ」と言って年神様の幣束を置いていました。幣束を置かれると災いがあるとされたので、どの家からも貰うことが出来ました。
ワラやカヤで作る円錐形の小屋に正月飾りや門松をつけ、甘酒などを作り小屋の中で遊びました。小正月の前夜や当日の朝に大人も小屋を燃やし、繭玉の団子を焼いて食べました。団子を食べると風邪をひかないといわれ、燃やした書き初めが高く舞い上がると上達するといわれました。(筆者:郷土資料館 北村澄江 原稿: 広報ひの平成20 年 01 月 01 日号より転載)』
『日野のサイノカミ(どんど焼き)今・昔
サイノカミは、サイトヤキ、トンドなどとも呼ばれる小正月の火祭り行事です。東日本では道祖神の祭りと結びついて行われることが多いのですが、祭りのやり方はそれぞれの地域で異なります。災いを祓い、人々の健康を願いました。日野市域では、最近はどんど焼きと呼ばれることが多いようです。
元々は子ども中心の行事で、子ども組と呼ばれる7~15歳位の子どもが七草を過ぎると、各家から門松や正月飾りを集めて回りました。このとき一緒に餅・米・みかん・賽銭などを貰います。「セーノ オコメニ オショウユニ オカネニ オマキニ オモチニ ドッサリクレヤ (干支)コーヤイヤイ」などという唱え言葉を囃し、貰えない家には「オンベラボウ」と言って年神様の幣束を置いていました。幣束を置かれると災いがあるとされたので、どの家からも貰うことが出来ました。
ワラやカヤで作る円錐形の小屋に正月飾りや門松をつけ、甘酒などを作り小屋の中で遊びました。小正月の前夜や当日の朝に大人も小屋を燃やし、繭玉の団子を焼いて食べました。団子を食べると風邪をひかないといわれ、燃やした書き初めが高く舞い上がると上達するといわれました。(筆者:郷土資料館 北村澄江 原稿: 広報ひの平成20 年 01 月 01 日号より転載)』
『子ども組と呼ばれる7~15歳位の子どもが…』という一文がありますので、日野にも子ども組や若者組といったような年齢集団があって、土方歳三もそれに所属していたのではないかと考えています。若者組の役割は、ムラの肉体労働を担う人材の確保と、これに所属する若者の教育にありました。若者組に属するようになると、ムラの祭祀行事でも中心的な役割を担うようになって、年長者からムラのしきたりや歴史、地方ごとに工夫されてきた仕事のコツといったようなムラで受け継がれてきた生活知識を学んでいきましたが、その中にはもちろん性教育も含まれていました。ムラでは若者組に所属する少し前の13歳になるとフンドシ祝いというのがあって、年上の若い女性から褌を送ってもらい、初めて褌を締め、この時褌をくれた女性から実地による性教育を受けて、一人前の男となるべく準備をしたと言います。この時は実地にまで至らないこともあったようですが、ともかくも15歳までにはこのような経験を経て、子ども組から若者組へと所属を変え、大人の仲間入りを果たしていたようです。土方歳三は13歳の時に奉公に出されているので、このような通過儀礼を経てから他家に働きに出されたと考えるのが自然なような気がしています。ちなみにフンドシ祝いで褌を贈る女性は、贈られる男子の母方のオバが良いとされていた地方が多かったようです。
参考文献:『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』 筑摩書房 赤松啓介著