▲玉縄首塚
▲玉縄首塚碑
玉縄首塚碑文
武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち 府
内に乱入せるを知るや時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫)豪士大船
甘糟 渡内福原両氏と倶に里見の軍勢を此處戸部川畔に邀撃し
合戦数合之を潰走せしめ鎌府を兵燹より護る この合戦に於て
甘糟氏以下三十有五人は戦禍の華と散り 福原氏は傷を負ひ
里見勢の死者その数を知らず 干伐収て後城主氏時彼我の首級を
交易し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷関死守の霊を慰の怨親
平等の資養と為し玉縄首塚と呼称す 経云我観一切普皆平等
今から四百八十あまり前の大永六年(一五二六)十一月十二日、南総の武将里見義弘が鎌倉を攻略しようとして鶴岡八幡宮に火を放ち、(鎌倉の)府内に乱入したのを知った、時の玉縄城主北条氏時(早雲の孫)は豪氏の大船の甘糟氏と渡内の福原氏とともに里見の軍勢をこの地、戸部川の畔に迎え撃ち、合戦を数回重ね、これを敗走させ、鎌倉の府内を兵火から守った。この合戦で甘糟氏以下三十五人が戦死し、福原氏は傷を追い、里見の軍勢の死者はその数がわからないほどであった。戦いが終わったあと、城主は彼らの(里見勢と甘糟勢の)首を交換し、葬って塚を築き、塔を建てて、郷土を死守した霊を慰め、怨親平等という考え方のもととし、玉縄首塚と呼んだ。お経に云うところに(仏様は)だれ一人と差別することなく遍くみんなを平等に見ている。
▲戸部橋
北条軍は鎌倉の玄関口にあたるこの戸部橋のあたりで里見軍を迎え撃ち、玉縄首塚の碑に書かれたような激戦となりましたが、これを敗走させました。
かつて玉縄城があった名残としてこの辺りには『早雲台』、『陣屋坂』、『城廻』などの地名があります。
玉縄城築城の際に集められた大工や建築業者、手工業者は『玉縄番匠』と呼ばれ、氏綱が着手した鶴岡八幡宮の再建にも大きな役割を果たしました。小坂家は代々玉縄番匠を勤めた家柄です。
鎌倉みどりこども園の右の細い脇道を行くと七曲坂が現れます。
氏繁の正室新光院は氏康の娘ですが、このあたりに住んでいたことから、七曲殿と呼ばれていたそうです。横須賀市に北条氏繁後室朱印状が残されていますが、これは七曲殿の印判だとされています。天正12年(1584年)に関修理亮なる者が主人の意志を奉じて発給した奉書式印判状で、鈴木某に対して初めて鯛三十枚・鮑百盃の上納を申し付けたとあり、氏繁が亡くなったのは天正6年(1578年)とされていますので、彼の亡後も七曲殿の生活がきちんと保証されていたことが伺えます。
▲澁木邸
以前まで太鼓櫓があったとされていました。
このあたりは崖のようなところに、小規模の平場群が階段状に展開されています。
以前まで太鼓櫓があったとされていました。
このあたりは崖のようなところに、小規模の平場群が階段状に展開されています。
▲太鼓櫓跡
近年の研究により、この市民緑地が太鼓櫓にあたると言われています。
鉄砲の弾薬を貯蔵する硝煙所の址だそうです。
近年の研究により、この市民緑地が太鼓櫓にあたると言われています。
鉄砲の弾薬を貯蔵する硝煙所の址だそうです。
玉縄城址は『清泉女学院』の敷地内にあたりますが、許可をいただけば見学も可能です。
▲『諏訪檀』登り口
標高80m、本丸との高低差は20mもあり、土塁というよりは曲輪、全長は60m、幅は30mで地元では城山と呼ばれていたそうです。
この階段の先に『諏訪檀』があります。高低差だけは伝わるでしょうか。
▲玉縄城址碑