牛久沼の秋桜 | 徒然探訪録

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牛久沼の秋桜が見頃を迎えています。

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 布施弁天の秋桜は黄色や橙色のキバナコスモスが目に鮮やかでしたが、牛久沼はセンセーション、ラジアンス、イエローガーデンといった淡い色の秋桜が咲き、優しい色に包まれています。

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蜜蜂は花から花へと大忙しです。

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牛久沼は鰻丼発祥の地とも言われています。

 『龍ケ崎市の西部に位置する牛久沼。ここは水が豊富で魚がよく捕れ、かつてはうなぎも数多く生息していました。実は「うな丼」の発祥の地が牛久沼だという話があるのです。
数ある丼物の中でも、うな丼はその「はしり」と言えます。江戸時代でも庶民の間では、うなぎの蒲焼きは盛んに食べられていました。
うな丼に関わってくるのは大久保今助という実在の人物。茨城県出身のこの男は、江戸の堺町(現在の日本橋人形町)で芝居の興行主をしていました。ある日水戸に出向くこととなった今助は、水戸街道を歩き取手の宿を出て牛久沼にさしかかりました。ここは陸路で行くより船で渡る方が早い。そう考えた今助は船を待つ間、湖畔の茶屋で食事をとることにしました。頼んだのはうなぎの蒲焼きとご飯。ところが案外に早く「船が出るぞ~!」の声がします。ちょうどそのときに頼んだ食事が出てきました。あわてた今助、茶屋の主人に「申し訳ない、あとで返すから!」と言い残し、蒲焼きをご飯の上にのせてお皿をふた代わりにし、船に持ち込んだのです。10分程度で向こう岸に着いた今助は「まずくなっちゃったろうなぁ…」とがっかりしながらふた(お皿)を開け、うなぎとご飯を食べ始めました。
ところが…!蒲焼きはほどよく蒸され、ご飯にはタレがしみ込み、たいへんおいしかったのです。感動した今助は、帰り道に茶屋に丼を返しながらその話をしました。そしてその茶屋がさっそく売り出したところ、大評判になった――という話です。
江戸に帰った今助が、自分の芝居小屋で出したのが商品化の始まりだとする説もありますが、いずれにせよ実在の人物が牛久沼での出来事をヒントに考え出した、ということは間違いないようです。今助がうな丼の発案者だということは、江戸時代に宮川政運によって書かれた『俗事百工起源』に記録されています。
現在では牛久沼沿いに7件のうなぎ屋が並び、「うなぎ街道」として数多くのお客様を喜ばせています。(『龍ヶ崎市役所公式HP』より転記)』

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▲うなぎ街道にある『桑名屋』の鰻丼 ¥1470