歴史研究家 あさくらゆう先生と行く 幕末史跡と新選組隊士の足跡を訪ねる てくてくミニツアー開催② | 徒然探訪録

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▲浄閑寺


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浄閑寺は安政2年(1855)の大地震の際に多くの新吉原の遊女たちが投げ込むように葬られたことから『投込寺』と呼ばれるようになったといいます。花又花酔の川柳に『生まれては苦界、死しては浄閑寺』と詠まれ、この新吉原総霊塔が建立されました。

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遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家の永井荷風はしばしばこの浄閑寺を訪れたといい、荷風の筆塚があります。

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『今の世のわかき人々』にはじまる荷風の詩碑はそのような縁でここに建てられたそうです。


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▲新比翼塚

愛し合って死んだ者たち、情死や心中した男女を葬った塚を比翼塚と呼びますが、この新比翼塚は明治の頃心中した、吉原の遊女・盛紫と警視庁巡査として西南戦争でも戦った経歴のある内務省役人・谷豊栄を祀ったものです。身分の高い役人と遊女の心中事件は当時としてはかなりセンセーショナルなものだったようです。

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▲浄閑寺墓所にある『本庄兄弟首洗い井戸』

鶴屋南北の『浮世柄比翼稲妻』に登場する白井権八という人物がいますが、権八は父が同僚の本庄助太夫と諍いを起こしていた現場に居合わせ、これに腹を立てて本庄を殺害してしまい、そのかどで追われ、江戸へと逃れてきました。江戸に逃れた権八は、素性を隠し、武家屋敷で雇われることとなりましたが、吉原の遊女・小紫に入れあげ、彼女に会う金欲しさに、浅草の日本堤あたりで吉原にやってくる男たちを待ち伏せし、辻斬り強盗をしたり、金持ちの商人を襲っては大金を奪うというような狼藉を繰り返してついにはここでも罪人として追われる身となってしまいます。ですが、そんな権八も東昌寺の住職に出会うことにより、改心して虚無僧となって、尺八を習ったり、諸国遍歴の旅に出たりするようになったのです。諸国遍歴の旅の途中、権八は重い病にかかり、死ぬ前に一目小紫に会いたいと大阪奉行所に自主し、江戸へと連行され、鈴ヶ森の刑場で処刑されました。自分のために辻斬りや強盗といった凶行を繰り返し、大罪人となって処刑されていった権八のことを知った小紫は権八の墓の前で後追い心中したといい、目黒不動尊の参道には権八と小紫の比翼塚が建立されています。この権八に殺された本庄助太夫の遺児、助七・助八兄弟は権八を追って江戸に潜伏していましたが、逆に権八に知られるところとなり、兄の助七は権八に返り討ちに遭い、弟の助八は討ち果たされた兄の首をこの井戸で洗っているところを権八に襲撃され、殺されてしまったといいます。


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▲見返り柳


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見返り柳は旧吉原遊郭の名所のひとつで、遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったことからこの名で呼ばれています。京都の島原遊郭の門口の柳を模したものだそうです。

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▲今戸神社


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今戸神社は縁結びの神様として有名で、いつも若い女性の参拝客が絶えません。


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招き猫の描かれた可愛い円型の絵馬がもうかける隙間もないくらいぎっしりとぶら下がっています。


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また、今戸神社は招き猫発祥の地とされていますが、人形としての招き猫は今戸焼が始まりだと言われています。

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招き猫発祥の地だけに、境内には沢山の猫の置物が置かれています。


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今戸神社の境内には『沖田総司終焉之地碑』があります。永倉新八の『同士連名記』によれば、江戸に引き上げてきた時には、沖田の病状はかなり悪化しており、医学所で治療を受けていましたが、官軍の江戸入りの際、他の患者たちとともにこの浅草今戸八幡に収容され、今戸八幡に寓居していた松本良順宅で療養していたといいます。



参考HP:『浄閑寺』HP
     『断想』
     『今戸神社公式HP』