1868年5月7日、土方ら旧幕府軍全軍は水海道に宿陣しました。
『慶応兵謀秘録』には『秋月登之助、去十二日水戸海道(水海道)より下妻を過、城主終に軍門に降伏す、半大隊を下館城に向けんとす。此時上野と称する所に、京兵屯営する事を下妻より通す。於此兵隊手配し、京兵を撃つ。京兵機械、大砲、金穀を捨走る。味方金穀を得る。』、『戊辰戦争見聞略記』には、『十四日、山崎駅に至り番兵を出して宿陣す。十五日、水海道に番兵を出して宿陣す。十六日、走土村(宗道)に宿陣。夜半、隊を整え、東照宮の白旗を飄し、我が藩は鎮字の白旗を飄して下妻陣屋に達し、我が立見氏、会の米澤氏陣内に進み重臣に面し説諭し、彼情実を聞、強る能ずして退く。土方氏又行て説く。暫して重臣たる者、侯の自筆を携、我陣に降る。』とあります。
▲水海道河岸跡の碑
▲水海道河岸跡周辺の風景
水海道河岸周辺は『鬼怒川の水は尽きるとも、その富は尽くることなし』と称された豪商たちが店を連ね、鬼怒川舟運の重要な拠点とされていました。六斉市も立つ商業都市として栄え、繁栄を極めた幕末から明治頃には一日に約100艙程の船が出入りし、川岸には『鍵屋』、『今井』、『秋山』、『荒井』と呼ばれる四軒の岸があったと言われています。土方ら旧幕府軍全軍もこの水海道河岸から宗道河岸まで舟で進んだようです。
▲宗道神社
境内には当時からあったのではないかと思われる大木がありました。
▲宗道神社裏手にある宗道河岸址
宗道は水海道・久保田と並ぶ鬼怒川の三大河岸で江戸と常陸・下総を結ぶ高瀬舟の発着所となっており、大正2年に常総鉄道が開通するまで隆盛を極めたと言います。真壁、下館、笠間からの年貢米や味噌、しょう油、薪炭、土器(甕類)などの物資がここから江戸に積み出され、江戸からもさまざまな物や文化が流入し、盛時には数十隻の高瀬舟が往来しました。明治期には役所、税務署、郵便局、銀行、旅館、旗亭などが集まり、この地方の政治経済文化の中心地とされてきました。鬼怒川は治水にも大変な注意が必要な暴れ川でしたが、大正15年より流路改修工事が施され、昭和10年に現在のような流れになりました。
『谷口四郎兵衛日記』の4月16日に『夜に至り、宗道川岸に兵隊整列す』とありますが、今ではかつての宗道河岸の面影はほとんど残されていません。旧幕府軍全軍はここから下妻陣屋へと向かい、下妻藩を下して人員を提供させ、下館へと進軍していきました。