ー土方歳三の足跡を辿るー百草園の梅まつり | 徒然探訪録

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『百草園』でも3月17日まで『梅まつり』が開催されています。


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今年は10日頃満開を迎え、訪れた日は丁度見頃、平日にも関わらず、多くの人で賑わっていました。


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『松連庵』ではよもぎ蕎麦や甘酒などを提供していますが、この日はお天気が良かったこともあり、かなり混んでいたようです。


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『三檪庵』付近の風景。


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水仙の花も沢山咲いていました。


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『百草園』は江戸近郊の名所として『江戸名所図会』などにも紹介され、多くの文人たちにも愛されてきました。徳富蘆花、大田南畝、田山花袋、北村透谷、若山牧水らもここを訪れています。園内には若山牧水の歌碑が建てられていました。

『百草園と若山牧水

 旅に生きた憂愁の歌人として有名な若山牧水は、まだ学生であった明治四十年前後に、百草園の自然を愛して、しばしば訪れていました。
 四十一年春には、小枝子という美しい名の恋人を連れて泊り、熱烈な恋の歌をよんでいます。
 この恋は悲恋に終わり、一年後にふたたび百草園を訪れた牧水はひとり静かに思いにふけり、歌集「独り歌へる」を作りましたが、この時期に歌人として立つ事を決意したのです。
 この牧水と百草園との深いゆかりを伝えるために昭和四十六年秋に建設された歌碑は、牧水の長男若山旅人氏が設計しています。
 
                                    若山牧水歌碑』



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見晴台からの風景。お天気の良い日には新宿新都心、東京スカイツリーも望めます。『松連庵』広場前からは筑波山が見えることもあるそうです。



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『日野宿文書検討會』様のHPによれば、この百草も我らが『豊玉』殿(土方歳三)が小野路(小島・橋本家)へ行くのに通ったルートの一つではないかということでした。今回は高幡不動尊から『百草園』まで徒歩で向かい、所要時間は約30分、土方歳三の生家がある石田から高幡不動尊までも徒歩で約30分、こちらも歩いたことはありますが、徒歩で1時間程度なら当時としてはそんなに距離があるようにも思わないので、彼が行商や出稽古の合間に『百草園』の景色を見た可能性はあるのではないかと思います。

勝沼での敗戦後、江戸城にて土方と言葉を交わした依田学海も『百草園』を訪れています。


『新選組を語る⑨-依田学海【よだがっかい】近藤・土方①-

 依田学海は幕末から明治にかけて、漢学者あるいは劇作家として知られていた。その依田が自身の著作である『譚海【たんかい】』に近藤勇・土方歳三のことを書いている。依田は天保4年(1833)生まれで、近藤より1歳年上であり土方とは2歳上になる。房総第一の佐倉藩に仕え、慶応3年(1867)には江戸藩留守役の要職にあった。
 依田が近藤・土方に会ったのは日記(『学海日録』)によると慶応4年1月16日のことである。新選組は鳥羽・伏見の戦いに破れ、近藤らは大坂から富士山丸で江戸にもどり、品川に上陸したのが1月15日のことであったから、江戸に戻った直後のことである。場所は江戸城であった。
 はじめ依田は2人を見たとき、なにか訳のありそうな人物がいるので、怪しんで尋ねたところ、近藤勇であることがわかったという。依田は鳥羽・伏見の戦いについて近藤に質問したところ、近藤はそばにいた土方に答えをうながした。鳥羽・伏見の戦いでは近藤に代わって新選組を指揮していたのは土方であった。依田の目に土方は「短身蒼白、眼光射人」の人物と映った。江戸に戻ったとはいえまだ戦場の余韻は残っていた。短い戦いではあったが、新選組は井上源三郎はじめ多くの同志を失っていた。
 土方は依田に説明した。この時、土方は、いまや武器は「砲」でなければ武器でない、刀や槍は役に立たない、と言ったと伝えられているが、正しくは「戎器(武器)、砲にあらざれば不可。僕、剣を佩【は】き(おび)槍を執る。一に用いるところなし」と言った。要するに「兵器は砲でなければならない。私は刀を佩【お】び槍をとっていたが使うことがなかった」と答えたのである。
 この後、2月半ばに新選組は上野寛永寺に謹慎した徳川慶喜の護衛にあたり、3月1日には甲陽鎮撫隊を結成して甲州道中を西に向かって進んでいった。

筆者:日野市古文書等歴史資料整理編集委員会委員 沼 謙吉
原稿: 広報ひの平成16 年 07 月 01 日号より転載』


『vol.58

<ふるさと人物誌22>
近藤と土方にあった文人 依田 学海【よだ がっかい】

 依田学海(1833~1909)は明治時代の劇評家・劇作家として知られている。維新期には佐倉藩(千葉県)の藩士として活躍し、維新後は新政府につかえたが、明治14年(1881)に辞職、劇作や演劇改良の先駆者として伊藤博文ら政府要人に歌舞伎を認めさせた。
 明治20年4月3日、百草村出身の生糸商人青木角蔵によって、百草園が開園された。そのころ、依田は山水の景観に魅せられていた。妙義山(群馬県)中の金洞山に遊び、翌19年には日光(栃木県)に、そして20年には峡中の昇仙峡(山梨県甲府市)に目が向けられていた。ちょうどその時に百草園が開園し、文人たちが招待された。依田にも招待状が届いたので、出席することにし、これを甲府に行く旅のはじめにした。4月2日、雨のなかを馬車で東京を出発し、府中に到着し泊まった。同行の士は7人、なかには日本画で有名な菅原白龍もいた。
 翌4月3日の開園当日も雨は止むことはなかった。その時、あっせん人の奥津雁江【おくつがんこう】がみえた。奥津は八王子で高等教育の塾を経営し、土地では名の知られた漢学者であった。一行は奥津の案内で百草村まで車で直行し、小雨の中をそろって山にのぼった。十国台と八州一覧亭からの眺望にみな感じ入り、依田は「妙なり」と発した。依田は百草園行きを「遊峡日記」…注に書いている。彼は維新の時、勝沼の戦いで敗退した近藤勇と土方歳三に江戸で会い、言葉を交わしている。その事を後に漢文で書いているが、依田は眼下に眺めた多摩の景観を近藤、土方の故郷と知っていただろうか。
…依田学海の日記『学海日録』(安政3年~明治34年)の第32冊目の一部。百草園を訪れた部分は『日野市史資料集』続地誌編に収載されている。
  
筆者:沼 謙吉
原稿: 広報ひの平成14 年 11 月 15 日号より転載』


参考HP:『日野宿本陣文書検討會』
      『ひの史跡・歴史データベース』