ニコライ堂の拝観時間は13:00~16:00までですが、この日は少し早く開けていただけ、貴重なお話も沢山伺うことが出来ました。
¥300を寄付し、黄色い蝋燭と小さなパンフレットを受け取ります。教会内にはキリストやマリアらのイコンが掲げられ、燈台が設置されており、ここに蝋燭を立て、祈りを捧げるのです。イコンは蝋燭の明かりに照らされたときに一番美しく見えるように描かれると聞いたことがありましたが、本当にその通りだと思いました。
まずは教会内のイコンや教会建築についての解説をいただきました。
ロシア正教の教会では神々は座ることはないとの考えから、当然信者も座らず、信者用の椅子は本来は置かれないとのことでしたが、この教会は日本人向けということで一応設置されていました。パイプオルガンもありませんでしたが、古くからの伝統を守り、聖歌には楽器を用いず、四声で歌われると聞きました。また、イコンを描くことは仏教でいえば写経のようなもので、形式も決められており、製作者の名前が記されることは少ないそうです。
キリスト教と一括りには出来ず、正教会、カトリック、プロテスタントと分かれて信仰されてきて、それぞれ教会の造りや祈りを捧げる対象などにも細かい違いがあるようでした。正教会にはイコンはあっても、マリアやキリストの像はありません。ここにあるのもイコンだけでした。ロシア正教においては像ではなく、イコンを媒体にして神に祈るのです。イコンは『愛する人の写真』と表現されることもあり、人は写真そのものではなく、中に写る人を愛するのだと考えるとイコンの意味がわかりやすいように感じました。
このニコライ堂でロシア正教を日本に布教したニコライ・カサートキンですが、ここで布教を始める前に、函館で新島襄と出会い、互いに語学やそれぞれの国の文化を教え合う仲でした。新島が海外渡航を画策し、函館に潜伏していた頃、ニコライはロシア領事館付の祭司を務めており、新島は渡航の機会を伺いつつ、ニコライの館に寄宿していたのです。ニコライは新島に英語と世界情勢を、新島はニコライに日本語を教え、二人で『古事記』を読んだと言います。
知り合って間もなく、新島はニコライに海外渡航の決意を告げ、助力を求めましたが、最初はもちろん反対されました。当時、海外に渡るには現実的には密航という手段を取るしかなく、これは国禁を犯すことであり、死罪に値したからです。しかし、函館に来てわずか二ヶ月後、新島はニコライの留守中、函館を発ち、アメリカへと渡ってしまいました。ニコライは新島の帰国後も彼のことを気に掛けており、日記にも彼についての記述が見られ、新島に面会を求めたりもしましたが、新島は一度も会おうとはしなかったそうです。新島が洗礼を受けたのは、ニコライの布教するロシア正教ではなくカトリックであり、ニコライにはヨーロッパ渡航を薦められていたにも関わらずそれに反するかのように彼の留守中にアメリカへ渡ってしまったことも、ニコライとの再会に気不味さを残していたのではないかと聞きました。ニコライの元には多くの日本人が学びに訪れましたが、これは当時日本ではキリスト教が世界先端の技術や学問だと考えられていたからでした。学ぶうち、キリスト教が先端の学問や技術というよりは日本でいう仏教のようなものだと知ると続けなくなってしまった人も多かったそうです。
芥川龍之助の『蜘蛛の糸』という短篇がありますが、この当時、龍之助はニコライ堂近く神田に棲んでおり、ここを訪れ、その際に耳にした話を物語にしたのではないかとも言われています。ロシア正教に伝わる話の中でこれにそっくりのものがあるのです。原典の所収はロシア正教のものではありませんが、インドにもロシア正教にも似た話が伝えられてきたということになります。
興味深いお話を沢山伺え、知りたいこと、調べたいことがまた増えてもしまいましたが、嬉しい悲鳴でもあります。
■東京復活大聖堂(ニコライ堂)
千代田区神田駿河台4-1-3
TEL:03(3295)6879
拝観時間:夏季(4月~9月) PM1:00~PM4:00
冬季(10月~3月) PM1:00~PM3:30
ニコライ堂を見学した後、湯島聖堂へ向かいました。
参考HP:『福本武久の小説工房』