日向内記について | 徒然探訪録

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白虎隊中二番隊中隊長、日向内記につきましては、先日放映されたドラマでも度々隊士を見捨てての逃亡とされる描写がなされていました。私の家族におきましても、画面に日向役の役者さんが映った途端、『あー、隊長のくせに負け戦だからって自分だけ逃げたんだよ…』。

私もそのような認識でしたが、何か引っ掛かるところがあります。彼は籠城戦に参加していたらしいのです。部下を見捨て、自分だけ生き残りたいと考えるような人間が籠城戦に参加する…それはありえないことではないのかと。

彼について少し調べてみました。 

『会津藩士の中で日向ほど武士としての誇りをきずつけられている人物はいない。戊辰戦争のなかでおきた白虎隊の集団自決が武士道の精華と称えられる一方で、隊長の日向は、戸ノ口原の決戦前夜に食糧調達を理由に戦場離脱をはかった卑怯者隊長として小説やテレビドラマに描かれ、それが一般の認識となっているからである。
 昭和四十二年三月、日向の孫で日露戦争の騎兵隊長だった坂田祐は、こうした世間に対してぶつけどころのない不満をもち、あるところにつぎのような手紙を書いた。

 私が数年前に参観しました時に、館内から声高く聞こえましたのに、隊長の日向内記が行方不明になった…と聞いてはなはだ不快に感じたのでした。私どもは幼少の時から祖父内記が、その時、会津軍が敗退し藩主松平公が危険になられたので殿様護衛の大任を持っている祖父は、白虎士中隊の敗残兵を糾合して、さらに中隊を組織して殿様を守護したと聞いていましたので、この行方不明を聞いて驚いたのであります。中隊長たるものが、その部下を放置して単独行動をなし、行方不明になるなどとは考えられないことです。
 あの自刃せる二十名の勇名をさらに高める為に、あとから隊長行方不明ということをつけ加えたのでしょうか。隊長が死を恐れて卑怯にも行方不明になったと一般に思われているので、私ども近親者は真に恥ずかしい次第であります。

 会津藩士の孫として厳しく育てられ、誇りにもして生きてきた武士的気質の坂田の、その憤懣を思うべし、である。
 日向の「食糧調達を理由にした戦場離脱」説は、ただ一人の自刃蘇生者飯沼貞吉の証言によるものという。筆者の住む喜多方市は、たまたま日向と飯沼にゆかりの深いところである。日向は明治のはじめに喜多方に住み、明治十八年に同地で亡くなっている。飯沼は自刃蘇生後に西軍を逃れて喜多方市岩月町の不動堂でひとつき近く療養していた。その地には現在ご子孫によって「飯沼貞吉ゆかりの地」の碑が建てられている。
 はたして日向は食糧調達を理由に戦場を離脱したのか。飯沼はほんとうにそのように語ったのか。地元に住むものとしてはおおいに興味をそそられる問題である。

 坂田(旧姓中村)は、日向の長女ミエの二男として明治十一年秋田県大湯に生まれ、苦学力行して関東学院大学を創立した人である。
 功なり名を遂げた坂田は、昭和四十三年に喜多方市を訪れ、市内満福寺にある祖父内記の墓を詣でた。それからまもなく、世間の「卑怯者隊長説」をくつがえすこともできずに九十三歳で亡くなっている。会津に残した最後のことばは、「あの会津武士的教養に満ちた私の母を生んだ私の祖父の人柄は私共には深く確信できます。戸の口における特別事情については、ぜひとも詳細な御研究を願いたい」というものであった。

 以上のような事情により日向内記の調査をはじめた。目的はただひとつ、「日向隊長は食料調達を理由に戦場を逃亡した」という子どもだましのような話の真偽を確かめることであったが、その真偽にせまろうとすれば必然的に周辺事情にも目を向けなければならない。資料をめくるうちに会津戊辰戦争に深入りし、史実と通説の迷路をさまよう羽目になった。
 すなわち流布するところの容保や白虎隊の出動、薩摩藩川村四番隊長の十六橋一番乗り、飯盛山の出来事、自刃蘇生後の飯沼貞吉のことなど、その内容に疑問を感じるところが多く立ち止まることしばしばだった。これらは直接的に日向問題と関係するものではないが、疑問は解消すべきものであるから、白虎隊の一連事項として解明をこころみ本書にくわえた。
 平成二年に発見され同五年に公表された士中白虎二番隊士・酒井峰冶の手記「戊辰戦争実歴談」は、現代人を一気に「真相の現場」に接近させた第一級の資料であった。これまで空想的にしか描かれてこなかった戸ノ口原の戦闘が、酒井手記によってはじめて具体的な場面として眼前にあらわれ、日向問題の真相解明に重要なヒントをあたえた。
 本書で参考にしたのは酒井手記をはじめとした旧会津藩士の手記、談話、あるいは明治時代の著作物である。しかしまだまだ手の届かないところに重要な資料は相当数あると思われるが、精いっぱい収集した資料の範囲内で考察をこころみた。

●各種資料を総合して見えたこと。
 1、白虎隊への回章発令は八月二十一日の夜である。
 2、母成峠の敗報は、二十一日の夜十二時(22日午前零時)には届いている。
 3、容保は二十二日早朝、二番隊を随従させ滝沢本陣に出馬、その後いったん帰城した。
 4、春日一番隊長が一番隊も従うと争ったのはこのときである。
 5、二十二日午後一時、一・二番隊は喜徳を前後に護衛して滝沢本陣に向かった。
 6、日向隊長が一・二番隊を率い、春日隊長は城中にとどまった。
 7、日向隊長は君命を奉じ直属の部下である二番隊のうち半隊だけに出動を命じたが、原田半隊長らの建言により、あとの半隊も出動することになった。
 8、このとき残された一番隊は憤慨したが、喜徳をまもって帰城した。
 9、強清水村の陣将は佐川官兵衛ではなく、家老一ノ瀬要人である。
 10、戸ノ口川は要害というほど深い川ではない。
 11、川村四番隊を十六橋一番乗りとするのには矛盾が多い。
 12、自刃者は9人、ほか10人は戦死した。
 13、二十二日夜、引揚げ命令を出した日向隊長は、軍議のため強清水陣営に向かった。
 14、日向隊長は二十三日朝、戸ノ口原で戦い、赤井新田を引揚げ、穴切に出ている。 
 15、酒井手記にある新堀とは戸ノ口堰である。』

以上は『会津戊辰戦争 戸ノ口原の戦い 日向内記と白虎隊の真相(富田国衛著)』という本の紹介文です。

このあたりの日向内記の動きを調べてみました。
■禁門の変に番頭組の組頭として参加。戦功をあげたと言われています。
■鳥羽伏見の役の後、朱雀士中二番隊中隊頭に任命されました。
■山川大蔵の後任として日光口の砲兵一番隊の隊頭に任命されています。
■1868年4月20日今市にて、会津救援の為に郡上藩を出てきた『凌霜隊』と合流。
■この時、会津の情勢を伝えたり、郡上藩からの使いで凌霜隊の速水氏が会津へ向かうときにも色々と世話をしたらしく、資料によれば、凌霜隊の面々からは非常に評価が高かったようです。
■6月下旬から7月上旬頃、藩命にて会津へ戻り「白虎士中二番隊中隊頭」となりました。(藤澤正啓の記した「会津藩大砲隊戊辰戦記」に「宇都宮戦では味方の加勢のために来たにもかかわらず、味方劣勢の風説を簡単に信じて退却を命じたとのことです(日向隊長の)采配に対して、砲兵隊内で憤慨する者も少なくない」というような記述があり、それを踏まえてか砲兵隊での戦功が思わしくなかったことによる更迭ではないかと見る向きもあるようです)。
■8月22日、白虎士中二番隊を指揮して滝沢本陣へ向かいました。その後戦況が思わしくないため白虎士中二番隊の出陣も決定、先発・後発と隊を分けて戸ノ口原へ出陣。
■8月22日夜、飯沼貞雄(貞吉)氏の証言によれば『食糧調達』のため、隊を離れました。ただし『食料調達』というのは飯沼氏の証言のみであり、同じく白虎隊士で生き残った酒井峰冶の手記には『食料調達』との記述は見当たりません。
■8月23日鶴ヶ城へ入り、籠城戦へ参加、白虎士中一番・二番隊士を一つにまとめ、白虎士中合同隊として西出丸の守備についています。
■9月5日(6日)鶴ヶ城へ入城してきた郡上藩・凌霜隊と合流、共に西出丸を守備し、激戦を戦い抜きました。
■9月23日、鶴ヶ城落城。会津藩降伏。
■謹慎生活の後、明治3年冬に陸路で斗南へ移住。
■斗南移住に先立ち、明治3年9月、小姓・富田権造重光に抱きかかえられて五戸へ向かった斗南藩主・松平容大(当時二歳)の護衛役として一度斗南へ赴き、その後、長女・ミエ(十八歳)と長男・真寿見(十六歳)も同行し、再度五戸へ入りました。この時は斗南藩の財政に関係する資金の輸送が主目的で、その後も協力者を増やし、内密に斗南藩を支えるべく資金調達に奔走したということです。
■明治6年に会津へ戻り、喜多方に住む知り合いを頼って喜多方へ移住しました。喜多方移住は明治4年との説もありますが、どうやらそれは内記氏が長男・真寿見を連れて喜多方の会津藩再興のための地固め・偵察などの密命を受けていたのだとも言われています。
■喜多方では定職につけず、明治18年11月4日、裏切り者、卑怯者の謗りを弁解することも無く60歳で亡くなったと伝えられています。

部下思いの人間だったとのエピソードもあり、こんな話も伝えられています。

戊辰戦争が起こるよりも以前、部下やその同僚たちの訴えを聞いた彼は、田中源之進と共に、処罰対象となった部下を庇って上層部へ申し立てをしたと言います。
『部下の吉川常五郎は処罰対象となるような者ではないので許して欲しい、それが叶わないなら自分らがかわりに罰を受けてでも殿様へ申し上げます』と、何度も申し立てたということでした。
結局吉川常五郎の所行は事実で、処分は相当であったらしく、内記隊長と田中源之進は申し立てをした誤りを認め、二十日間蟄居したそうですが…。

砲兵隊の隊長を務めていた時分には、隊士からの評判が宜しくなかったとも伝えられており、それが隊長として無能、逃亡との単語に結び付けられてしまっているのかもしれませんが、これは今『幕府歩兵隊』という本を読んでいて、土方のことも絡めて彼らのことについてもそのうち書きたいと思って少し調べてもいるうち、これはちょっと違うのではないかと思いました。
幕府歩兵隊はかなり荒っぽく、時には命で律するようなことも必要だった部隊のようです。人を殺すことを厭わない代わりに自らが死ぬことも厭わない、だから土壇場で強さを発揮した。土方が函館に連れていったのはそんな連中だったのだと思います。日向には命で律するという考えがなかったでしょうし、その他のことについても砲兵隊の面々には『甘い』ととらえられ、受け入れられなかったのかもしれません。その反面、凌霜隊隊士からは非常に支持されていたと伝えられ、部隊の特性に寄って自分を演じ分けられなかった不器用さはあるかもしれませんが、ドラマで描かれてきたような部下を見捨てて逃げ出すような指揮官ではなかったとの認識を今では持っています。

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参考HP:『おもはん社ホームページ 知楽館』

    『雪月下 日向内記に関する私的備忘録』