白虎隊隊士烈伝 | 徒然探訪録

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前述の中二番隊隊士の中でも自刃した隊士の逸話を少し調べてみました。

■安達藤三郎
四百石物頭、小野田助右衛門の四男。
大柄で赤黒い肌。眼が大きく幼さを残す丸顔の青年だったと伝えられています。
関所の守備時、騎馬が一騎通りかかった時、怯まず彼は「待て、止れ」と叫ぶなり小銃で馬上の人物の上を撃ちました。その馬上の人物こそ新選組の土方歳三であり、さすがの土方も引き返して藤三郎に詫びを入れてからその場を立ち去ったと言います。
享年十七歳。法名は信忠院殿英山見雄居士。

■有賀織之助
有賀権左衛門の次男。
中肉中背で眼はやや細く、鼻筋の通った清らかな顔だったと伝えられています。
性格は剛胆にして素直。腕力があり剣を振れば剣鳴りがすると言われた程です。
藩黌日新館では三礼塾二番組に編入されました。
九歳で出場した大演舞大会では、この腕力を生かした見事な薙刀捌きをみせ、満場の喝采を浴びたと言います。
出陣時に、母いく子より「有賀家は代々忠臣の家です。『くれぐれも父上とご先祖様の名を汚すことをしてはなりませんぞ。決して、死を恐れるではない』と厳しい戒めを受けて出陣しましたが、母からの戒めをしっかりと守って見事に自刃し、わずか十六歳の命を飯盛山にて散らしました。
法名は秋峰院戦誉義道清居士。

■石田和助
医者石田龍玄の次男。
十歳の時に藩黌日新館に入学し、毛詩塾二番組に編入されました。
飯盛山退却時には傷を負っていたので「手傷が苦しければ、お先に御免」と言って、
最初に自刃し、作法通り見事な一文字に腹を切ったと伝えられています。
享年十六歳。法名は秋山義遊居士。

■石山虎之助
二百石、井深数馬の次男。
温和な性格ながら勇壮俊敏。五、六歳で百人一首を全てそらんじた程抜群の記憶力を持っていたと伝えられます。
十二歳で藩黌日新館に入学し、毛詩塾二番組に編入されました。
退却戦にて自刃。
享年十七歳。法名は秀了院殿義覚剣忠居士。
飯盛山で自刃した白虎隊士は最初十六人であり、この当時は虎之助の名はありませんでしたが、十七回忌法要の時、郷士史家の調査により自刃したことが判明し、隊士名簿に名を連ねることとなりました。

■伊藤悌次郎
藩儒伊藤佐太夫の次男。
少し虚弱体質ではありましたが、柔術、砲術に精通し、新島八重の実家近くに住んでいたこともあり、彼女から砲術の指南を受けていたとも伝えられています。
十一歳で藩黌日新館に入学し、尚書塾一番組に編入されました。
退却戦では池上新太郎が負傷していたので、津田捨蔵と共に助け、遅れて来た三人の内の一人です。井深茂太郎とは親戚関係にあり大変親しく、隣で自刃していたそうです。
飯盛山のお墓には十七歳となっていますが、享年十六歳。法名は仁進院忠節劔義居士。

■伊藤俊彦
伊藤新作俊亘の長男。
性格は優しく、情が深かったと伝えられています。
痩せ型で背が高く、色白でやや口は大きめですが、目尻の上がった美少年だったそうです。
飯盛山のお墓には十七歳となっていますが、享年十六歳。法名は浄忠院心誉義善居士。

■井深茂太郎
三百石、井深守之進重教の長男。
英才の少年で、性格は温順にして沈毅。武術の心得は相当なものだったと伝えられています。
十歳で藩黌日新館に入学しました。
十三歳で会津最高学府止善堂入学。
白虎士中二番隊に配属、記録係に任命され、仲間と共に自刃。
享年十六歳。法名は深明院殿忠道義人居士。

■篠田儀三郎
供番二百石、篠田兵庫の次男。
幼少より正直者で、一度も嘘をついた事がないと伝えられています。
十一歳の時に藩黌日新館に入学し、尚書塾一番組に編入されました。
白虎隊では士中二番隊の嚮導(指図役・隊長代理)に任命され、これを見事果たしています。
出陣した後、日向内記は食料調達の為に離れ、指揮は儀三郎に任されていました。彼は死に急ぐ若き隊士たちをまとめ上げ、それでも何とか飯盛山まで退却させたのです。
享年十七歳。法号を賢忠軍誉英清居士。

『辛苦遭逢一経より起る  干戈落落たり四周星
山河破砕し風絮を漂わし  身世の浮沈雨を打つ
皇恐灘頭皇恐を説き  零丁洋裏零丁を嘆ず
人生古より誰か死無からん  丹心を留取して汗青を照さん』

■鈴木源吉
藩医鈴木玄甫重積の次男。
身体は大柄、面長で額の広い顔だったそうです。
槍術は宝蔵院流、剣術は真天流、砲術を特に熱心に学んでいました。
十歳で藩黌日新館に入学し、毛詩塾一番組に編入されています。
出陣時、兄の金次郎から祖先伝来の宝刀『冬広』を餞別として受け取り、自刃の際にはこの刀で腹を一文字に切って、見事な最期を遂げたと伝えられています。
享年十七歳。法名は顕忠院達誉義勇居士。

■津川喜代美
百石、高橋誠八の三男。
勇猛果敢で、指揮能力に優れていたと伝えられています。
幼少時、郭内米代二之丁の百五十石津川瀬兵衛隼人の養子としてむかえられました。
津川家の祖先津川茂兵衛は加藤清正に仕えた重臣です。
十歳で藩黌日新館に入学し、尚書塾一番組に編入されました。
享年十六歳。法名は清進院良誉英忠居士。出陣前にこのような和歌を吟じています。
『かねてより親の教えの秋はきて 今日の門出ぞ 我はうれしき』

■津田捨蔵
十三石三人扶持、津田範三の次男。
身体は大柄、素朴で快活な性格であったと伝えられています。
祖先は大谷刑部吉隆とされています。
退却時は負傷した石田虎之助を伊藤悌次郎と協力し、これを助けて飯盛山まで退却しましたが、ここで自刃。
享年十七歳。法名は清進院勇猛義忠清居士。

■永瀬雄次
十八石三人扶持、永瀬丈之助の次男。
英雄豪傑が好きで、そのような名前が欲しく「利勝」と丈之助が与えたとのことです。『雄次』は通称名。
せっかちで、出陣時は片方の脚絆と弁当を持たずに出て行き、途中で母親と下僕が届けたとか。
退却時、集中弾を浴びて重症となり、飯盛山で親友林八十冶と刺し違えようとしましたが、力尽き八十冶を刺す事は出来なかったと言います。
享年十六歳。法名は功勲院忠誉義道居士。

■西川勝太郎
三百石、西川半之丞の長男。
祖先は西川仁左衛門重次で島原の乱では城中に一番に突入した勇士と伝えられています。
十歳で藩黌日新館に入学し、三礼塾二番組に編入されました。
指導力があり、退却時には篠田と共に自刃しようとする隊士を制し、主君の生死を確認してから自刃しようと飯盛山まで退却させました。
飯盛山で天守閣が炎に包まれているのを確認すると、「今こそ国に殉ずるべき」と言って隊士に死所を与え、自身も先祖に恥じない見事な最期を遂げたのでした。
享年十六歳。新道の家なので霊号を節顕霊神と号しています。

■野村駒四郎
三百石、野村清八の三男。
西川勝太郎と簗瀬勝三郎とは親友でした。
十一歳で藩黌日新館に入学。
槍術が得意で、十七歳で一旨流の切紙下免許を受ける程の腕前でした。
自刃の際、林八十冶が永瀬雄次と刺し違える事が出来ずにおり、彼が八十冶の介錯をつとめたと伝えられています。
享年十七歳。法名は義詮孝忠居士。

■林八十冶
十石三人扶持、林忠蔵の長男。
忠孝の人物で、沈毅。退却前には木陰で立ちながら居眠りをするという豪胆な性格だったと言います。
藩黌日新館では二経塾二番組に編入されました。
自刃の際、親友の永瀬雄次と刺し違えようとしましたが、雄次が力尽き野村駒四郎に介錯を頼んで、見事な最期を遂げたと伝えられています。
享年十六歳。法名は義光院剣誉忠勇清居士。

■間瀬源七郎
三百五十石、間瀬新兵衛利貞の二男四女中の末弟。
色白で容姿端、子供の時より小姓役を務め、性格は温和で恭謹。
十歳で藩黌日新館に入学し、三礼塾二番組に編入されました。
十六歳で会津最高学府止善堂に入学。
出陣時は通常はダンブクロ(ズボンもどき)でしたが、源七郎は紫縮緬紐の義経袴と鷹匠足袋に草鞋、頭には韮山笠というりりしい若武者姿であったと言います。
享年十六歳。法名は勇猛院忠誉義進居士。

■簗瀬勝三郎
三百五十石、簗瀬源吾直淳の三男。
簗瀬家は藩祖保科正之助に仕えた家老柳瀬三佐衛門正真以来、秀でた人物が傑出しています。
祖父、父と共に学者でしたが、勝三郎は武術が好きで馬術は大場儀助に、弓術は一瀬五右衛門に、槍術は内田判之助に、剣術は長坂源吾にと、武術全般を会得していました。
西川勝太郎、野村駒之助とは親友だったと言います。
十歳で藩黌日新館に入学し、三礼塾二番組に編入。
フランス式陸軍調練では、それをいち早く取り入れ、藩のために尽力しました。
享年十七歳。法名は忠壮剣光居士。

■簗瀬武治
百五十石、簗瀬久人の次男。
非常におとなしい性格で色白、女性のような容姿だったと伝えられていますが、見た目とは反対に非常に男らしい勇猛な一面も持ち、弓術では飛んでいる鳥を射る事ができるくらいの腕前だったと言います。十一歳で藩黌日新館に入学し、三礼塾二番組に編入。
享年十六歳。法名は武勇院殿義戦居士。

■飯沼貞吉
四百五十石、飯沼時衛の次男。
幼名は頴悟。
十歳で藩黌日新館に入学し、二経塾一番組に編入。
十五歳で会津最高学府止善堂に入学。
慶応四年に歳を一歳偽り、白虎士中二番隊に配属。
自刃の際、短刀で咽喉を刺したが急所から外れ人事不省となりましたが、戦死者の遺品を狙う泥棒に担がれ戸ノ口堰の水路まで行き水を飲み、八ヶ森山中にて捨てられ、茸を取るために山中に来た百姓渡辺佐平に発見されて、袋山の岩屋に運ばれたと語っています。
貞吉を手当てしたのは町医者三木住庵でしたが技術及ばず、同宿していた長岡藩軍医某に助けられたと言います。
明治五年に工部省の技術教場に入学し、卒業後、逓信省に入り電信建築技師として従事しました。
日清戦争には歩兵大尉として従軍しましたが、帰還後は逓信省に戻り、仙台逓信管理局長の初代公務部長を務めています。
昭和六年二月に没。享年七十八歳。
この部隊の生き残りとして、語り部となり、敢えて困難の路を選んだのは、常に彼が白虎隊の仲間を心に置き、後世に伝えたかった何かがあったからに他なりません。

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参考HP:『幕末WEB 世に棲む日々』