土方歳三の足跡を辿るー布施ー | 徒然探訪録

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私は流山以後の土方や新選組隊士達の動きに興味を持ち、下館や下妻なども巡ってきましたが、こちらにも行ってまいりました[みんな:01]

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▲布施弁天。

慶応四年、四月十三日、土方ら旧幕府軍前軍は、布施村に宿営し、十五日朝まで滞留しました。

『同十三日、布施弁天駅泊陣。(中略)同十四日、滞陣。(谷口四郎兵衛日記)』
『四月十三日四ツ時御着、十四日滞留、十五日五ツ時出立。
伝習歩兵隊
隊頭 秋月登乃助
内藤隼人
(千葉県東葛飾郡誌)』

当時布施村には『七里の渡し』があり、利根川対岸の戸頭(茨城県取手市戸頭)への渡河地点でした。

当初は翌朝の出立を予定していましたが、利根川の増水により、渡河が翌日に持ち越されたようです。

流山から会津に向かう新選組隊士たちもこの布施河岸を利用しました。

慶応四年四月四日、『中島登覚書』にはこう記されています。

『同四日、兵器尽く官軍エ差出シ、其ヨリ士官、卒、凡百五十人余々不残会城エ落ル。』

この時、新選組隊士としてこの布施河岸を渡った田村銀之助の談話があります。

『布左といふ所で小舟数隻に分乗しました。官軍はそれと知つて直ぐ追つけて来ましたから、矢張り危険であつたが、皆舟に乗込んで仕舞つた後でしたから幸でした。それから銚子に着きまして、観音の前の大きな宿屋に一同宿陣致しました。(中略)翌朝、大きな二艘の舟を雇ひ、之に分乗して水戸の霞ヶ浦を経て、板子(潮来)といふ所に着船した。そうして陸路を水戸の港を経て、浜街道を平方(潟)まで行きました。平方から奥州に這入る目的で行きましたけれども、奥州は其当時総て官軍でありまして、通行が出来ませぬから、平方から又引返しまして、間道を棚倉の方に出ました。(中略)約十四里もある人跡絶えた間道を経て、矢吹といふ所に出まして、矢吹から長沼といふ所に出て、長沼から「セイシ(勢至)堂」といふ所に着きました。是は会津の堅固な要害の地でございます。漸く会津に這入りました。会津の方では大に歓迎されました。(史談会速記録 )』

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▲布施弁天の境内はこのような感じです[みんな:02]

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▲布施弁天は大変見通しの良い高台にあります。布施弁天から見た七里の渡し辺りの景色船

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▲今の新大利根橋のあたりに、七里の渡しはあったそうです。

布施弁天:千葉県柏市布施1738
     ℡ 04-7131-7317

アクセス:我孫子駅北口より「あけぼの山公園」行にて終点徒歩10分位
     我孫子駅からのバス時刻表
     柏駅西口より5番バス停「布施」行にて終点
     柏駅からのバス時刻表


参考文献:『土方歳三日記 下』菊地明著(ちくま学芸文庫)