▲当時のお店っぽくないですか
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大名や勅使が休息・宿泊する旅宿を本陣といいますが、江戸時代前期にはこちら「北及び南品川宿」にはそれぞれの本陣があり、中期以降は「北新宿」のみとなったそうです。現在の本陣跡は1771年に定着し、「歩行新宿」(かちしんしゅく)を含む三宿のほぼ中央に位置しています。
明治元年(1868)、明治天皇行幸の際の行在所となり、聖蹟の名が付きました。
聖蹟(せいせき)と名がつく場所は都内でも、3カ所と少なく、今では公園になっています。
品川宿は日本橋を出て初めての宿であり、東海道の親宿として栄えていました。
宿内にはこの外に脇本陣2軒があったそうです。本陣とは勅使・大名・外国使節などが泊る旅館で、明治3年(1870)に宿駅制度が廃止されるまで存続しており、こちらの本陣は明治元年天皇が東幸の際、行在所となったことから、昭和13年聖蹟公園とされました。
北品川1丁目28番~30番、2丁目2番の一部を歩行新宿と言ったそうですが、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保7年(1722)に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足(かちにんそく)のうち、歩行人足だけを負担したために「歩行新宿」=「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味でこのように名付けられたそうです。
▲問答河岸跡の碑。
問答河岸は三代将軍家光と沢庵和尚の問答が行われたという故事により付けられた通称だそうです。家光の「海近くして如何か是東海寺(遠海寺)」に対し沢庵は「大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し」と返したのだとか。
品川宿の探索において小舟を置いておくには丁度良い河岸場だったようです。
▲品川浦。夕陽、水、屋形船のコラボがとても良い雰囲気でした
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かつて品川浦は豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地だったそうです。現在ではつり船や屋形船が舳先(へさき)を並べ、釣り人や納涼に繰り出す人々で賑わっています。屋形船を出すお店がこの一帯に軒を連ねていました。
新選組隊士たちが大阪から品川入りした際にはこの付近から上陸したんでしょうかね

またゆっくり歩きたい街です、品川・旧東海道
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参考HP:しながわ観光協会