そして五日、淀川の北岸に三本の錦の御旗を立てられたことで戦境が大きく動くこととなる。
幕府は朝敵とされてしまったのだ。
その状況に動揺した慶喜は大阪城から出ることもなく、自ら先頭に立って戦うことを拒んだ。
このような慶喜の態度に東軍の戦闘意欲は削がれ、戦勢は一気に西軍側の勝利へと大きく傾いていく。戦闘集団として実績を残してきた新選組も、この戦いでは何一つ戦果を挙げることは出来ず、井上をはじめとする古参の兵を多く失い、大きな痛手を被った。
六日の深夜ひっそりと大阪城を抜け出した慶喜だったが、七日にはもう開陽丸の船上にあった。これを受けて、同日に新政府より、慶喜追討令が出されている。
十一日、慶喜を乗せた開陽丸は品川に到着、勝海舟がこれを迎えた。
『開陽鑑、品海へ錨を投ず。使ありて、払暁、浜海軍所へ出張、御東帰の事。初めて伏見の顛末を聞く。会津侯、桑名侯ともに御供中にあり。その詳説を問わんとすれども、諸官ただ青色、互いに目を以てし、敢えて口を開く者無し。板倉閣老へ附きて、その荒増を聞くことをえたり(海舟日記)』
新選組を預かり、幕府軍の要として戦った容保も、この戦いで彼と両翼を担った桑名藩の定敬もさすがにこの慶喜の態度には大きな落胆を隠せなかった。
翌十二日には江戸城に登城した慶喜であったが、この時大阪から逃げ帰ったままのフランス式軍服で和宮に会おうとしたところ、これを拒まれたという。きちんと着物に着替え、やっと和宮との謁見が叶った時、慶喜は鳥羽・伏見の戦いの顛末と、新政府軍に恭順の意を示すつもりであることを彼女に告げたのだった。
この後、慶喜は江戸城に詰め、大評定を続けたが、論議は一向に進展する気配を見せなかった。
『これよりして日々空論と激論と、ただ日を空しくするのみ、敢て定論を聞かず(海舟日記)』
そして十五日、強硬に主戦論を唱え続けた勘定奉行兼陸軍奉行の小栗忠順がついに罷免された。小栗はなおも戦い続けよと強く慶喜の袖を掴んで食い下がったが、慶喜はそれを振り払って去って行き、その場に残された小栗は悔し涙を抑えることが出来なかったという。十九日には諸藩の老臣を集め、恭順の意思が固いことを再度伝えた。この時容保と定敬は再戦を強く望む旨を慶喜に伝えたが、これが聞き入れられることはなく、再び大きな落胆を味わうこととなった。
二十三日、慶喜は勝を陸軍総裁に、大久保を会計総裁に任じている。そうして幕府の体制をほぼ直参で固め、二月十日、容保ら強硬派を登城停止にして一掃、自分は十二日に江戸城を田安家の徳川慶頼に預けて上野寛永寺の大慈院に蟄居恭順となった。
『われらはたとえ幕府にはそむくとも、朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これは義公いらいの家訓なり(昔夢会筆記)』これがこの時の慶喜の心情であった。
この時付従ったのは勝海舟とともに『幕末の三舟』と言われた高橋泥舟、山岡鉄舟、剣各の松岡萬ら少数精鋭。新選組もこの時幕府に正式に雇われていたわけではなかったが、陰ながら慶喜の警護にあたった。勝は寛永寺には同行せず、慶喜のため、西軍との折衛に奔走していた。
寛永寺に蟄居中の慶喜は月代も剃らず、髭も薄く伸ばし、粗末な木綿の羽織袴を着ていたという。
慶喜は新政府軍に蟄居恭順の意を伝えて欲しいと勝に依頼し、最終的に山岡がこの役目を引き受けることとなった。そして、未だ江戸に残留し、新政府軍との再戦を唱える新選組の残党や古屋らを江戸外周の守りに就かせるという名目で江戸から去らせたのだった。三月一日のことである。
三月九日、山岡が駿府に入り、西郷と会見して幕府の窮状を語った。十一日には西郷が江戸に入り、十三日に勝も彼と会見している。十四日、勝は再び西郷と交渉。田町駅近くに会談場所の碑が建てられている。

▲勝・西郷会見の地
勝の慶喜助命嘆願を受け、翌十五日に西郷は江戸を出立し、二十五日には駿府に着いた。
勝のほうはと言えば、イギリス大使館のパークスと会見するという名目で、二十六日に単身横浜を訪れ、西軍の海軍先鋒、大原重実に会いに行った。勝はここで大原を説き伏せ、翌日二十七日にはパークスと会見してその信頼を得ることに成功したのだ。この直後、パークスは西郷に働きかけ、慶喜の極刑を諌めたのだった。新政府もそれを聞き入れ、慶喜の命の保証は取りあえず得られたのである。
四月四日、新政府の勅使が江戸城を訪れ、十一日に江戸城明け渡しが決定する。そして、十一日早朝、慶喜は江戸城を出て水戸へと去り、江戸城無血開城となった。
この後の慶喜だが、明治二年九月に謹慎を解除され、駿府に移住し、写真・囲碁・謡曲などの趣味に没頭したという。明治三十年巣鴨に移住、三十五年には公爵に叙せられ、貴族議員として再び政治に携わる機会も与えられた。そして四十三年、七男慶久に家督を譲り、再び趣味に興ずる生活に戻ったという。
多くの優秀な家臣に支えられたからこそ、幕末という激動の時代を生き延びられた人であると思う。
享年77歳。徳川歴代将軍の中でも最長命であった慶喜は大正二年に死去した。
彼の墓所は寛永寺から程近い谷中霊園にある。



▲慶喜公墓所
参考文献:『幕末史』半藤一利著(新潮文庫)