幕末関連史跡探訪ー上野寛永寺・谷中霊園①ー | 徒然探訪録

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慶応四年(1868)一月、鳥羽・伏見の戦いが勃発、旧幕府軍は惨敗を喫し、大阪へと敗走した。徳川慶喜はこの直後、旧幕府軍を置き去りにして、密かに深夜大阪を抜け、江戸へと逃れている。

主なき大阪に留まる意味はもはやない。だが、これらの戦場なくしては、戻る場所なき者たちも多くいた。脱藩者や土方のような出自の者たちだ。武士として生きたい、だから戦い続ける、そんな格好の良いものではなかっただろう。職を失い、帰る場所すらなくなる、それが彼らに突きつけられた厳しい現実だった。

新選組もとりあえずは体制を立て直すにも江戸へと帰還するほかなかった。鳥羽・伏見の戦いでは井上をはじめ、多くの仲間を失い、帰還中の艦内で重傷を負っていた山崎もとうとう死んだ。沖田も長いこと胸の病を患っており、鳥羽・伏見の戦いに参戦することすら出来ず、この艦中でも寝込んだままだった。

大阪を出て五日後には、土方らの乗った艦は品川に入港した。土方はこの翌日にはもう、近藤とともに江戸城に入城している。その折り、佐倉藩士の依田と出会った。

『戎器は砲に非らざれば不可。僕、剣を佩び槍を執る。一も用いる所無し』

この時江戸城に登城してはいたものの、『油小路事件』の残党により狙撃され、鳥羽・伏見の戦い前に負傷し、この戦闘に参加も叶わなかった近藤の背後に控えて、このように依田に語ったのは土方である。

行き場のない彼らは、仕事を、居場所を求めた。だが、雇い主の慶喜やそれを支えた勝、大久保らにとって、彼らはもはや一刻も早く切りたい人材とされてしまっていたのだった。

慶喜は彼らのことを顧みることもなく、新政府軍に恭順を決め込み、寛永寺に引きこもってしまった。

慶喜が積極的に新選組を使うことはこの時点でなくなったといってもいいだろう。だが、彼らは寛永寺に引きこもる慶喜の警護に自らあたったのだった。

そんな彼らに命ぜられたのが『甲州鎮撫』である。近藤率いる部隊は『甲陽鎮撫隊』、近藤自身も大久保剛に、土方は内藤隼人とその名を改めさせられた。新政府を刺激し、慶喜らの立場をこれ以上悪くさせないためである。

こうして追い立てられるようにして向かった甲州でも大敗を喫した。

そして再び江戸に戻り、再起を図って下総流山に向かうも、ここでついに近藤が捕縛されてしまった。矢河原の渡しから板橋に移送された近藤は切腹も許されず、斬首に処せられてしまう。

近藤の死後も、共にあった者たちと生き残る術を模索しつつ、過酷な戦いに身を投じて函館まで転戦を続けた土方だが、近藤の死からその約一年後、ついに一本木関門にて銃弾に倒れたのだった。

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▲寛永寺に向かう道に建てられた碑。

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▲寛永寺の門扉には徳川の御紋。

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▲本堂。

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▲銅鐘。

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▲ひっそりとした寛永寺の境内は、夕暮れ時の陽に散りゆく紅葉が最期の彩りを見せ、物悲しくも美しかった。

参考文献:『土方歳三日記 下』菊池明 編著(ちくま学芸文庫)
     『男の隠れ家 特別編集 時空旅人Vol.11 結成150周年 新選組 その始まりと終わり』
     『慶応四年新撰組近藤勇始末』あさくらゆう著(崙書房出版 )
     『慶応四年新撰組隊士伝』あさくらゆう著(崙書房出版 )