江戸七不思議②ー八丁堀ー | 徒然探訪録

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八丁堀の七不思議にも霊厳島などと同様に諸説ありますが、安藤菊二著の『八町堀襍記(ざっき)』」に掲載されたのは以下のものです。

■奥様あって殿様なし
与力の妻を奥様と敬語を使い、しかも主人を旦那様といって、殿様とは呼ばないことから。江戸時代の殿様というのは御目見以上を呼ぶ敬称なので、いかに与力は僣上(せんじょう=身分をわきまえず、さしでた行為をすること)の振る舞いがあっても、殿様との呼称は使われません。
主人が旦那様なら、妻は御新造(ごしんぞう)様でないと釣り合わないのに、主人が与力な為殿様という敬称は使われず、その妻だけが奥様というのが不思議という意味です。
普通、与力格の妻は玄関に出たり、外部の者と接触しませんでしたが、町奉行所与力の妻は例外で、夫の職務柄、来客は頼みごとが多く、いかめしい男よりも女性のほうが訪問しやすくて、頼みごともしやすい、ということで妻が活躍するようになったのです。しっかり者でなければ勤まらず、一般から尊敬され、『奥様』と呼ばれるようになりました。

■女湯に刀掛け
その始め同心専用の足洗ということで設けられた銭湯でしたが、やがてそれらの足洗が、大衆の入るものに変わったことで、同心は身分の混同を嫌い、朝一番先に女湯に入るようになったので刀掛けが必要になりました。
女湯に入ったのは、その他の理由としては、女性は家事などの関係で早朝から入浴しなかったのと、隣りの男湯の話しを盗み聞きするのに都合がよかったからと言われています。
同心の家族という名目で家族であれば女子でも同じ湯に入れたりもしたようですが、、男女混浴は市中一般に禁じられていたようです。

■ドブ湯
前記の風呂屋のこと。元は足だけを洗うためだけのものでしたが、『ドンブリ入る』と言う言葉を約して『ドブ』と言うようになりました。

■鬼の住居に幽霊が出る
幽霊とは幽霊横町を指し、鬼とは与力同心のことです。

■地蔵の像なくして地蔵橋がある
組屋敷内にはいくつも石の橋がありましたが、旧与力・多賀仁蔵の門前に、すべて自分普請で架けた石橋で『仁蔵橋』と呼ばれていた橋がありましたが、その家が潰れた後、与力の共有にして『地蔵橋』と改称しています。また昔、橋の際に小さな石地蔵がありましたが、大火のために焼き崩れてしまったとか。

■百文あれば一日快楽のできる土地
貧乏小路(スラム)に住んでいる者の言葉。渡し船を渡るのを船遊びといい、入湯、ひげそり、めし、さけ、その他たかが最下などで快楽を味わえる。贅沢を言わなければ何とか人らしく暮らしていけるところという意味なのではと解釈しています。

■一文なしで世帯が持てる土地
背割長屋に入れば、敷金も道具もいらず、1日稼いで幾らか手に入れば、一膳飯屋で腹がいっぱいになる、飲みたい者は酒屋の店先で枡を冠る。ちょっと塩をなめて、したみの5合に虫をおちつくる。時折火事があれば出役の同心の後を追ってその場に駆付ける。布団1枚くらいとるは見逃す。八丁堀同心の長屋に住んで、多少その顔を見知られることがステイタス。

幽霊横町には、名前のように両側は与力屋敷の高い塀、ちょうど後ろ向きの暗い新道で、『夜な夜なしらしらとしらけた首も飛び出し、通行人のそでを引きとめる』などと言われたり、怪談もあったようです。
貧乏小路につきましては、まこと貧民窟であると記されていますが、この横町に住む同心のうちに、自分の拝領屋敷内に背割長屋を作る者があり、このため背割長屋のスラム街が出来てしまったようです。安永4年吉文字屋次郎兵衛版の『築地八丁堀日本橋南絵図』にも、地蔵橋に近い竹島町の南側に『百間長屋』とあります。
背割長屋はこけら葺の平屋、間口は9尺、奥行2間、表は雨戸2枚、踏み込みは土間で、部屋は3畳1間、裏は3尺のあげ板敷、雨戸1枚、こんな設備なので、家賃も安く、日掛50文ずつでした。
路地はわずか3尺。ここに住むのはその日稼ぎの者で、男女ともに与力同心の家に出入りしていたり、その与力の下男などに懇意な者が多かったようです。彼らは、沢庵、漬け菜の類を貰ったり、来客の食あまったものなども密かに入手出来ました。その代わり、中間小者の衣類の洗濯などは、彼らが引き受けていたとのことです。

また次のような七不思議もあります。

■金で首がつなげる
八丁堀の与力の家には、頼みごとのための来訪者が多かったので、『金を出して頼めば、斬られた首もつながる、つまり賄賂がきく』、という噂がたち、それが七不思議に加えられました。

■地獄の中の極楽橋
八丁堀組屋敷内に「極楽橋」という小さな橋が架かっていたそうで、犯罪者を断罪する八丁堀役人を『地獄の獄卒』と考え、彼らの住んでいる組屋敷を地獄に見立てて、その中に極楽橋があるというのは不思議と皮肉られたのです。

■貧乏小路に提灯かけ横丁
八丁堀組屋敷内に提灯かけ横丁というのがあったそうで、字は「掛け」をあてるのか「欠け」をあてるのかはわかりませんが、貧乏小路とは30俵2人扶持の同心の生活が苦しいと諷し、それに引き換え、八丁堀同心の台所は豊かで、他の同心たちのように傘張りなどの内職をしないでも悠々暮らすことが出来ていたのですが、外部の者には、柱二本を立てただけの木戸門から見える組屋敷は、ほかの同心組屋敷同様、貧乏くさい感じがしてしまい、このように言われたようです。

■寺あって墓なし
万治のころまで八丁堀一帯は寺町であったので、その寺々の名が小路名として残っていましたが、名が残るばかりで寺や墓地が残っているわけではなかったので、七不思議の1つに数えられるようになりました。

■儒者、医者、犬の糞
犬の糞というのは、いたるところに落ちているとのイメージが当時にはあったようですが、その犬の糞のように八丁堀には多数の儒者(学者)や医者が集まっていました。
というのも、江戸後期になると、与力や同心が拝領した屋敷地は、小遣い稼ぎや生活費の足しにするため、その一部を、表向きには武家屋敷には武士以外が住むことを禁じられていましたので、内密にですが、人に貸し与えるようになっていました。
ただ、普通の、町人では何かと問題を起こしたりする心配があったので、儒者や医者に貸すようにしていたのです。このため、八丁堀一帯にはこういった職業の人が集まるようになりました。


与力・同心の町らしく、ほとんどが彼らに対する揶揄から構成されているのが特徴で、本所七不思議のようないかにも怪談じみたおどろどろしいものはほとんどありませんが、その地域性をよくあらわしているように思え、大変興味深かったです。

参考HP:『わが町 八丁堀 中央区八丁堀二丁目東町会』公式HP