

▲試衛館跡
『試衛館と誠衛館
近藤周助の道場試衛館については、試でなくて誠衛館であり、誠が正しいという説がある。試衛館と記した文書は、小島鹿之助(為政)の撰した『両雄士伝』の文中にあり、
学剣近藤那武、通称周助、亦武之 郡小山村人、■(変換不可)以善剣鳴世、構場(号試衛)、江都市谷柳街、従游者千有余人
とある。字が試と誠が似ていることと、新選組の「誠」の旗、あるいは武士のめざした至誠などの関連で誠衛館という説が出たと思われる。
しかし、近藤周助の道場は天保十年に開かれ、新選組とは関係がない。勇はこの周助の道場を跡に継いだわけである。したがって、誠衛館とする説は何の根拠もない。当然当時の史料で誠衛館と書いたものはない。』
▲『新選組余話』 小島政孝(小島資料館)
文書としては『試衛場』とのみ残されているだけのようである。
新選組の史料と言われているものには聞き書き形式のものも多い。
新選組というコンテンツには様々なメディアが関与し、そして何より地域観光と密接に結びついてきた。それ故、当然史実とも多くの矛盾を抱えてきたのだろうが、それでも、それらを『浪漫』として多くのファンが受け入れてきたのである。京都某史跡の悪質な所得隠しはこうしたファンの心を蔑ろにするものに思えてならない。
さてさて、こんな話は自分などの手に負えるものでなし、剣に燃える試衛館時代の彼らの様子を永倉新八氏の『新撰組顛末記』から。
『さるほどに江戸は小石川小日向柳町坂上に道場を開く近藤勇は、あまたある剣客のなかでも押しも押されず、朝から五、六十人の門弟が出つ入りつ遠近に竹刀の音を絶たない。塾頭は沖田総司という人で後年に名をのこした剣道の達人、その他山南敬助、土方歳三、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎など鉄中のそうそうたる連中が豪傑面をならべてがんばり、武骨がすぎて殺気みなぎるばかり。永倉新八は最初ほんの剣術修行のつもりで近藤塾へ足を運んだが、日をへるとともに近藤の身辺からほとばしる義気が永倉のそれと合し、はては沖田、土方、山南その他の豪傑連とともにいつしか親密のまじわりを結ぶ仲となった。』
▲『新撰組顛末記』 永倉新八 (新人物文庫)
引用文献:『新撰組余話』小島政孝著(小島資料館)
『新撰組顛末記』永倉新八著(新人物文庫)