土方歳三の足跡を辿るー下妻・下館④ー | 徒然探訪録

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四月十七日、土方率いる旧幕府軍の先発隊は、先日の下妻と同様、大砲を差し向け、東照宮大権現と書かれた大旗と日の丸の旗を掲げて、下館藩にも脅迫めいた談判を行った。

『暁六ツ半時下館之城へ押寄、大手前大砲一門川村国太郎者、藤野太郎次郎者、護衛隊和田久太郎者、松下祐次郎者引率し、城下口へ大砲一門川崎準三郎、小山精一郎者、同護衛一小隊松葉権平、上條梅之輔者引率し、第一伝習半大隊城廻りを囲み、内藤隼太者談判に及ところ、不及一戦、城主軍門に降伏す。(「慶応兵謀秘録」)』

『十七日快晴。昨夜より四里余の道を今朝まだ薄す暗らきに下館町へ着。城下或は近傍の形勢を探るに、攻戦の論議決すと雖も、城主は官軍の召しに依て宇都宮へ出頭、家臣は城下某寺へ集合し軍議決すと雖も兎角因循の由、斯て吾が総隊は城の諸口へ隊を配当し、大手并に某寺へは大砲を準備し、事宜に及わば迅急に炮発致すべき姿勢をなす。又草風隊は鎗釖を携え、市中を旋回して其威風を顕わす。市中の周章大方ならず。

偖て又内藤隼人・松井九郎の両人は一小隊護衛にて城中へ参向、重役に面会して談判に及ぶ。諸隊は両士の報告に依て戦争に相成る可しと、何れも奨励して相待ちけり。然る処午前十時頃、重役二人内藤・松井と連立門外迄出、諸隊長へ懇篤に礼有り、城内へ案内す。其上曽て違心無き意を述て、其証として兵を指出す。依て此日当町に滞在し、東照宮の御祭日故快よく祭典を遙拝す。

石川氏より出せし兵五十名、総隊へ交附し、下館を出発す―石川氏より出せし人数、何れも士分にて立派の出粧なりしが、十九日宇都宮攻戦の節不残逃亡致したり。是は砲声に恐怖して歟、又は仮に和談して一時患を遁れしにや不詳―(「夢之桟奥羽日記」)』


『十七日暁天同所城主石川若狭守城下に至り、直に兵隊を尽く散兵に配り付大手前へ大砲を備え、裏門へ右同様に備えを設け、此時土方公は大手通りに本営を取り、軍監井上清之進、倉田巴、我等右三人応接入城し、家老に談す。直様家老二名用人一名同道して本営に来る。石川若狭守家来中一同徳川家へ同志之旨言上す。夫より兵糧弾薬を調え宇都宮へ向う。尤当城下に於いて秋月公兵隊不残会合す。(「島田魁日記」)』

『扨も水海道より北進しある大鳥軍の先鋒江上太郎、土方歳三、土工兵頭吉澤勇次郎、小菅辰之助其の他我が藩人小池帯刀、安部井政治、安部井壽太郎、山口亥佐美、桑名藩士と先づ下妻に至る、下妻は徳川氏の譜代大名井上辰若丸正己(萬石)が在所なり、藩士に勧誘して我に応ぜしめんとせしが一人の応ずる者なし、次いで下館に至る、是も亦譜代大名石川若狭守総管(二萬石)が在所にして、総管は旧幕府の若年寄格兼陸軍奉行なりしが、藩士にして一人の我に応ずる者なし、僅に金子と武器とを提供せしのみ。(「会津戊辰戦史」)』

『同十七日、下館石川若狭守居陣屋、進軍様伏誓約する下妻と同じ、誓文を以盟約之。軍金二百両、大砲一門、粮米弾薬を差出す。泊陣営に水府侯側臣松本河合兄弟二人忍来り、隊下に加わるに依て、別伝習一小隊率せしむ(「谷口四郎兵衛日記」)』

この時の下館藩藩主は石川総管。総管は講武所奉行、若年寄兼陸軍奉行、陸軍副総裁など幕府の要職を歴任した。戊辰戦争でも佐幕派に立ったが、その後新政府軍に寝返っている。しかし、4月17日土方率いる旧幕府軍の半ば脅迫といえる談判に耐え切れず、軍資金や物資を提供せざるを得なかった。その直後、新政府軍からの要請もあり、立場に窮した総管は、宇都宮戦争で旧幕府軍の惨敗が決まるまで水戸へと逗留することとなる。


下館駅北口を降り、大町通りを直進。

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▲かつて城があったことをしのばせる地名が残る。

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▲駅から20分くらい歩くと右手にこのような看板が見えてくる。

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▲下館城址

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▲下館城址の説明板

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▲小さな神社内に石碑が建てられているのみである。

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▲この大木は恐らく当時からあったものだろう。土方も目にしたのだろうか。

参考HP:『會東照大権現』