『ちばい』のご店主から「昔は蕎麦は冷たくはなくて、あったかかったんだよ、蒸龍で蒸してたから」などとのお話を伺い、蕎麦について少し調べてみました。ざるもりかけせいろ…その違いもよくわからなかったので。
蕎麦の日本伝来はかなり古く、奈良時代であったと言いますが、この頃は蕎麦掻き、蕎麦焼きとして食されていたようです。
今でいう蕎麦は蕎麦切りを略してそう呼ぶようになったものですが、このいわゆる「蕎麦切り」が登場したのが、天正2年(1574)。長野木曽にある寺院の修復祝いに寄進されたものの中に蕎麦切りという文字が見られます。
この頃の蕎麦がご店主が言っていた「蒸し蕎麦切り」で、温かいざるそばというイメージのものです。茹でた蕎麦切りをざるで掬い、ぬるま湯で洗ってからまたざるに入れ、これに熱湯をかけてから蓋をして熱いまま共するもので、つけ汁は何と味噌味。江戸時代前半までは蕎麦は味噌汁で食べられていたそうです。
味噌汁そば。信州や甲府などの地域では伝統的な食べ方です。
寛永20(1643)年刊行の『料理物語』には、蕎麦切りの製法とともに、「汁はうどん同前、是上こんの汁くはへ吉。はながつほ・おろし・あさつきの類・又からし・わさびもくはへよし」とあります。「うどん同前」とありますから、にぬき、またはたれ味噌を使います。にぬきは味噌一升に水三升とかつお二節を入れて煎じたあと、袋に入れてこしたもの。
たれ味噌は、味噌一升に水三升五合を加え、煮詰めて三升になった頃、袋に入れてたらしたもの。だしはかつお。初期のお蕎麦はかつおだしの味噌汁につけて食べられていたのですね。
こうした「蒸し蕎麦切り」は17世紀終わり頃まで続き、蕎麦につなぎとして小麦粉を使うようになったのは早くても元禄年間(1688~1704)。
一番早く登場したのはもり蕎麦で、江戸中期になるとぶっかけ蕎麦が流行、ざる蕎麦は深川の州崎弁財天前伊勢屋が蕎麦を竹ざるにのせて出したところ、評判が良く、これが発祥と言われています。
しかし、出前命の蕎麦のこと、竹ざるにのせたのでは効率良く出前が出来ず、差し支えが生じる。
そこで、蕎麦を盛った状態でも重ねて運べる蒸龍を使うようになったそうです。
時代小説に江戸の旦那衆が蕎麦を肴に一杯、なんて場面もありますが、これは蕎麦粉100%に近い白いお蕎麦なのですね。
蕎麦粉100%に近いお蕎麦は茹でると切れてしまうため、蒸して食べられていました。これがせいろ蕎麦です。
蒸気で蒸し上げると蕎麦本来の甘み、香り、食感が残り、とても美味しく、日本酒に合い、塩をかけて食べるとまた絶品なのだとか。前述の記事で蜀山人が佐藤家で振る舞われた蕎麦を大変気に入って『蕎麦の文』を残したとの話を書きましたが、その時使われた蒸龍があったり、蕎麦が白いとの表現が見られたりしますから、佐藤家が振る舞った蕎麦はこれに近いものじゃなかったのかと思われます。
もり蕎麦とざる蕎麦の違い。
今では、海苔がかかっている方がざる蕎麦、かかっていないのがもり蕎麦となっているようですが、その違いは実はつけ汁にあったようです。
ざる蕎麦ともり蕎麦、どちらがより高級なイメージなのかといえば、ざる蕎麦が一段上なようです。
ざる汁はもり汁に御膳かえし(普通のかえしに同量のみりんを混ぜたもの。)を加えたもので、ざる汁は普通の蕎麦汁よりも、高価なみりんを贅沢に使った、甘くて濃厚な味だったのです。
しかし、海苔をかけると、海苔が汁を吸って本来のざる汁では味が濃過ぎてしまう。
そのため、現在ではみりんをそれほど使わないさっぱり味のつけ汁と海苔の組み合わせになっているようです。
私としてはいつか、白く、蒸龍でしか調理出来ないような繊細な蕎麦を、高級な日本酒をちびちびいただきながら、塩のみで食してみたいものです。
参考HP
『手打ちそば喜心庵』
『からしら萬朝報』
『そばの豆事典』