新撰組残照の地流山を歩く | 徒然探訪録

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鳥羽・伏見の戦いで敗戦した新撰組は、徳川慶喜の後を追い、江戸へ。その後、寛永寺に謹慎する慶喜の護衛を勤めていましたが、江戸防衛の拠点となると思われた甲府入城の沙汰が下りました。新政府軍の刺激を避けるため、甲陽鎮撫隊と名を改めて、三月一日江戸を出立。調布、日野、懐かしい故郷で大歓迎を受ける近藤…甲州入りが遅れ、新政府軍にも先手を打たれてしまい、甲府城は接収された後。援軍も来ない。土方は江戸へ援軍を要請に走りましたが無視され、孤立無援の状態に。当然勝沼でも大きな敗戦を帰しました。

勝沼の敗戦後、散々に江戸に退却、江戸で再会を果たしたものの、永倉を始めとする幹部と近藤・土方との溝はもはや埋めることが出来ないものとなっていました。永倉や原田を家臣扱いする近藤、あくまで自分たちは彼らの同士だと考える永倉たち。近藤の不遜な態度に一度は激昂した永倉でしたが、それを一旦収めて、今までの礼を述べ、席を立ちます。その後、原田らと靖共隊を組織。会津で戦線を離れ、米沢に逗留後、松前藩に帰参。原田は靖共隊からも離れ、彰義隊に加わり、戦死。

慶応四年(1868)、三月十四日、近藤・土方らは五兵衛新田の名主金子健十郎の家に入り込み、四月一日にここを出立、二日に流山に陣を移します。しかし、不穏な動きを聞きつけて、翌三日に新政府軍が流山入り。近藤は切腹をせず、出頭。土方らを逃がすために時間を稼いだのでした。土方はもちろん近藤の助命を嘆願しますが、それが聞き入れられることはなく、四月二十五日板橋にて近藤は斬首。享年35歳。

『 近藤勇昌宜 辞?  
孤軍援絶作俘囚 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔 
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣 只将一死報君恩 

孤軍援絶えて俘囚となる
顧みて君恩を念えば涙さらに流る
一片の丹衷よく節に殉ず
?陽千古是我が儔
他に靡き今日また何をか言はんや
義を取り生を捨つるは わが尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣 
只一死をもって君恩に報いん』

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▲近藤が流山を去るときに使われた矢河原(やっから)の渡し跡


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▲今でもこのような風景が広がっています。