勝沼の敗戦後、散々に江戸に退却、江戸で再会を果たしたものの、永倉を始めとする幹部と近藤・土方との溝はもはや埋めることが出来ないものとなっていました。永倉や原田を家臣扱いする近藤、あくまで自分たちは彼らの同士だと考える永倉たち。近藤の不遜な態度に一度は激昂した永倉でしたが、それを一旦収めて、今までの礼を述べ、席を立ちます。その後、原田らと靖共隊を組織。会津で戦線を離れ、米沢に逗留後、松前藩に帰参。原田は靖共隊からも離れ、彰義隊に加わり、戦死。
慶応四年(1868)、三月十四日、近藤・土方らは五兵衛新田の名主金子健十郎の家に入り込み、四月一日にここを出立、二日に流山に陣を移します。しかし、不穏な動きを聞きつけて、翌三日に新政府軍が流山入り。近藤は切腹をせず、出頭。土方らを逃がすために時間を稼いだのでした。土方はもちろん近藤の助命を嘆願しますが、それが聞き入れられることはなく、四月二十五日板橋にて近藤は斬首。享年35歳。
『 近藤勇昌宜 辞?
孤軍援絶作俘囚 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣 只将一死報君恩
孤軍援絶えて俘囚となる
顧みて君恩を念えば涙さらに流る
一片の丹衷よく節に殉ず
?陽千古是我が儔
他に靡き今日また何をか言はんや
義を取り生を捨つるは わが尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只一死をもって君恩に報いん』

▲近藤が流山を去るときに使われた矢河原(やっから)の渡し跡


▲今でもこのような風景が広がっています。