カッパ祭り開催に寄せて⑤ー牛久城跡ー | 徒然探訪録

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カッパ祭りには直接に関係はないですが、雲魚亭や抱樸舎を少し下ると牛久城跡があります。
堀と土塁などが残るのみで、ブッシュに埋もれていますが、こんなところがあったのかという景色が見られました。


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▲少しわかりづらいところにありますが、迷いそうになると出てくるのがこの小さな道標。


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▲牛久城大手門跡の碑


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▲牛久城についての立て看板

諸説あるようでしたが、今回は立て看板の内容をそのまま引用致します。

『牛久城は城主の岡見氏によって天文後半(1550年頃)に築造された。この城は、戦国期に築かれた東国の城の特徴を持ち、本丸がある城山には石垣や天守閣を持たない典型的な遺構を残している。ここは、小田原北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れられて造られた極めて頑丈な城になっている。下妻の多賀谷氏によって岡見氏の有力支城である矢田部城と足高城は落城したが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高木氏などの援軍を得て守り切った。牛久城は天正十六年(1590年)に豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城した。その後、秀吉は由良国繁を牛久城城主としたが、関ヶ原合戦後の元和九年(1623年)に牛久城は廃城となった。』

その後寛文九年(1669年)に牛久藩二代目藩主の山口弘隆によって再構築され、慶長十六年(1615年)、私婚のかどで改易になり、再び一時廃城となりました。山口氏はもと周防国出身で、織田信雄に仕えていました。寛永年間になって山口氏は再び牛久領主になりましたが、城主支配を嫌い、陣屋を近くに築いて、これが幕末まで続いたようです。


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▲このような感じで築城されていたようです。