土方歳三の生家では石田散薬という家伝の薬を製造しており、歳三自身も剣術の稽古の傍ら、石田散薬の行商を手伝っていたことはよく知られている。
石田散薬についての記事をいくつか紹介する。
以下はひの・史跡・歴史データベースで検索することが出来る。
◆『郷土史を探る 日野の新撰組 土方歳三(ニ)』より引用。
『生家に帰った歳三は、兄を助けて農事をするかたわら、家伝の石田散薬を武州一円はもとより、相州方面まで足を伸ばし売り歩いている。
土方家に伝わるこの石田散薬は、多摩川の水辺に自生する牛革草(葉は正面から見た牛の顔に似て、茎が赤い。通称みぞそば)を土用の丑の日に採集し、これを陰干しにして乾燥、貯蔵しておき、必要に応じてこれを黒焼きにして細かい「ふるい」でふるってその粉末を薬として販売したもので、酒で服用すると、うちみ、くじきに特効があり、土方家の当主のみにその製法が伝えられ、昭和初期まで製造販売されていた家伝薬である。
土方家では、土用の丑の日の牛革草の採集が年中行事となっていて、明治末頃まで石田村中の人々が動員されてこの草の採集にあたった。
歳三もこの採集に参加し、時々兄喜六に代わり、採集する人たちの指揮にあたることがあり、歳三が指揮にあたると作業が順調に進み、その指揮ぶりは、後年新選組を強力な集団に作りあげた歳三の天分ともいえる統率力が、このころから人目をひくものがあった、と言い伝えられている。(筆者:日野市文化財保護審議会委員 谷春雄)』
先日あった土方愛氏の講演会でも歳三の采配が非常に良かったとの話があったが、この記事でもそれについて読むことが出来る。ただし、このエピソードの出所はこの記事から知ることは出来ない。
◆『郷土史を探る 日野の新撰組 土方歳三(六)』より引用。
『さて、この入門した年月日および年齢だが、近藤勇の墓のある、三鷹市大沢、竜源寺所蔵の天然理心流神文帳【しんもんちょう】によると、土方歳三は安政六年(一八五九)三月九日に入門と記されている。
しかしこの入門年月日については、同門の人の史料等を照合してみると、切紙【きりがみ】又は目録授与のとき神文帳に記入された例が多く、歳三の入門もこの例にもれず入門後一年ぐらいで与えられる切紙、又は二年目ぐらいの目録授与(同時のときもある)のおり、新井村の土方勇太郎、石田村の土方久三、下田村の土橋粂蔵等と並んで神文帳に記されたものと想像され、歳三の入門は、安政三年から五年頃、二十二歳から二十四歳頃と推測されている。
歳三は、この理心流入門による剣術修行が性格にあったものか稽古に熱中し、家業の石田散薬を売り歩くときも剣術道具を薬箱にくくりつけて歩き、行く先々の道場で稽古をしたとも語り伝えられている。
この歳三の稽古熱心はすぐに成果を表したものか、万延元年(一八六〇)九月三十日近藤一門により府中六所宮(現大国魂神社)に大扁額が奉納されており、近藤勇、青木織蔵、寺尾安次郎、峯尾、西村一平、井上松五郎等、理心流の高弟に伍して、刃引の太刀をもって模範試合に出場している。入門してまだ数年も経っていない歳三が、この模範試合に出場したことは、歳三の剣技が短期間に上達したことを物語っている。(筆者:日野市文化財保護審議会委員 谷春雄)』
◆『新撰組を語る⑥ー土方歳三と石田散薬』より引用。
『この土方家は石田村で一番の旧家であることはもちろんだが、いつのころからか、村内の人には「大尽【だいじん】」、近隣の村人からは「石田の大尽」と呼ばれていた。
宝永ころ(一七〇四~一七一一)、土方家は「石田散薬」という、多摩川の深淵に住む河童明神から製法を伝授されたと伝えられる、打ち身、くじきの特効薬を製造販売していた。
この薬の製法は、土用の丑の日に多摩川、浅川または近くを流れる水辺に生える牛革草【ミゾソバ】を採集し、これを陰干しにして乾燥、貯蔵しておき、必要に応じて一定量を鉄の焙烙【ほうろく】で黒焼きにし、少し酒をまぶして一晩おき、翌日薬研で粉末にしたもので、一定の分量を一包みとしていた。
この草の採集は、村中の人たち(もっとも14軒ほどの村だが)にお願いしたという。
薬の焼き加減が非常に難しいということなので、先代の土方康氏に、しつこくこれを聞いてみたところ、「焙烙の底に細かい粉状になった薬が集まり、火がつくことがある。そんな時は、あらかじめ茶碗についでおいた酒で霧を吹いて消す」などと話してくれたが、火加減などを質問すると、あとは「一子相伝」と答えるのみ。また、「この散薬は酒にて用うべし」とあるが、「酒で薬を飲めば、体がホカホカ温まり、くじいた痛みも忘れてしまうのではないか」と笑い飛ばされてしまった。
康氏の祖父策助は、薬作りに一升瓶を持って「薬屋」(製造小屋)に入り、薬の出来上がるころには一升瓶が空になっていたという。策助の死後、祖母が薬を作るようになってからは、酒は一合しかいらなくなったという。生来良き酒徒だった康氏が薬を作るようになってからも、酒は一升必要だったのかも知れない。
数年前、「日野の歴史と民俗の会」で、石田散薬の復元を試みたことがあった。康氏の言葉通り、焼き加減が難しく、強い火で焼くと全体が木炭を粉にしたようになり、現在土方歳三資料館に残る、少し草の成分の青さや茶色の残った粉にならない。粉に火がつくかつかない程度の温度の火で、一定の時間を焼き、あとは康氏の言うように発火しないように酒をまぶして一晩おくのが石田散薬の秘伝らしい。
この石田散薬も、昭和23年旧薬事法が改正されたおり、審査を受けたところ、毒にも薬にもならないからと却下され、以後製造していない。(筆者:日野市文化財保護審議会委員 谷春雄)』
◆『新撰組を語る⑯ー石田散薬その後ー』より引用。
『石田散薬の薬効
東京都薬剤師会北多摩支部と東京薬科大学では、平成15年から石田散薬プロジェクトを結成し、石田散薬の復元と成分分析を行い、その薬効の検証を試みている。昨年は日野市でも、同大学の山田健二先生とプロジェクトチームの薬剤師さんのご協力を得て、石田散薬を作ってみる体験学習会が行われた。この時次のようなご教示を受けた。
これまで、石田散薬は昭和23年(1948)、旧薬事法が改正されたおり、さしたる薬効がないということで、薬としての認可を却下され、それを機に製造が中止されたと伝えられてきたが、それは少し違うというのである。
黒焼きの薬の成分を抽出するためには、高度な性能を持つ分析器が必要で、昭和23年ころには、まだそのようなものはなかったそうである。当時の薬事行政の一環として、家伝薬として細々と家内生産されてきた黒焼きの薬全般を、薬としての認可を取り消そうという方針が立てられたというのが真相。昭和24年6月21日付『薬事日報』には、「黒焼は医薬品でない」という見出しで、「厚生省としては一般に黒焼は医学薬学上その効能効果があると考えられないので医薬品として認めない方針であり一般商品として取り扱うものである」と記されている。石田散薬に薬効がないことが、科学的に実証されたわけではなく、黒焼きの薬だからという理由で薬としての認可を得られなかったことが判明した。黒焼きの薬の薬効成分を抽出することは現在でも難しいそうである≪注≫。土方家に残る昭和初期の効能書きによると「新選組の常備薬」として、日清・日露戦争の兵士の携帯薬として常備されたとあり、1日分1包が20銭である。当時のたばこ1箱が7銭であることを考えると、何の効果もないものを、このような価格で買い求めたということは考えにくく、何らかの薬効はあったのではと思われる。では、石田散薬はどれくらいの範囲で販売されていたのであろうか。
『村順帳』から分かること
土方家に伝わる明治16年(1883)の『村順帳』は、石田散薬の販売先が記されている資料である。当時の多くの薬がそうであったように、石田散薬も村の雑貨屋などに委託して販売されており、同書にはその委託先が426件記されている。その範囲は、多摩地域にとどまらず、都内は豊島・世田谷あたりまで、神奈川県は川崎・横浜、山梨県は大月・上野原、埼玉県は所沢などかなり広範囲にわたっている。明治期の資料であるが、江戸時代の販路もそう大きく変わるものではなかったと推察される。土方はどのあたりまで行商して歩いていたのか、興味が湧いてくる。
ここに記されている委託先を訪ねてみたら、石田散薬に関する新たな資料を見つけることが出来るかもしれないし、実際に効能があったのかどうか、服用していた人の話を聞けるかもしれない。まだまだ、研究の余地が尽きない石田散薬である。(筆者:日野市ふるさと博物館嘱託・北村澄江)』
当ブログの石田散薬関係の記事はこちら。
→『石田散薬をつくる』
『土方歳三が石田散薬の行商で訪れた地』
『土方歳三が石田散薬の行商で訪れた地②』