弘化3年の大水で流される前の土方歳三の生家には「三月亭」という庵(茶室)があり、よく句会なども催された風流な家だったと言います。来客があった折など、庵で茶を沸かし終える頃にやっと来客が到着するような広い敷地を持っていたとのことです。
歳三の祖父は三月亭石巴と号していましたが、それはこの庵の名からとられたものです。
土方歳三資料館日記の2008.1.10「石巴の絵道具~その後」という記事の内容が講演会でも取り上げられており、上記はそちらを参照しております。
また、ひのデータベースを検索すると、池田和夫さんの「長雨と歳三生家」という記事に生家の敷地面積など概観が書かれています。
『歳三生家の概観
歳三の生家は敷地389坪(約千280平方㍍)の広さを持ち、かつては長屋門も東南側にあったが、昭和の初め立川方面の火災で家を焼失した人に譲ったとのことである(故土方康氏談)。また、「石田散薬」の製造所跡が母屋の南側に残されていた。
屋敷の西側には防風のための屋敷林としケヤキ、カシ、竹などが植え込まれ、北裏の竹林には「石田散薬」の製造所があった(歳三没後南側に移された)。屋敷にはほぼ南面、土蔵が配され、東部は農作業のための「ニワ」になっている。なお、裏鬼門の方角の庭隅には、屋敷を守る稲荷【いなり】が祀【まつ】られている。
小屋組は入り母屋の平屋造りで、取り壊す前は茅葺【かやぶ】きの上をトタンで覆っていた。このトタンは70年ぐらいに葺いたというから、当時としては珍しい景観を見せていたと想像される。
平面配置の様子
当家の平面配置は、日野市域の標準的な民家から見ればかなり各室が不整形に配されている。建築当初から農業も薬の製造もやっていたことから、通常の農家とは機能上間取りが違っていたと考えられる。
明治以降、たびたび改築されてはいるが、母屋全体の規模は当初よりさほど変わっておらず、多摩地域の他の民家と比べ、かなり特異な平面配置を持つ建物であったといえる。
(市史編集委員 池田和夫)
筆者:池田和夫
原稿: 広報ひの平成3 年 06 月 01 日号より転載』
389坪…広いですよね。
まず、長屋門があり、ここから歳三は馬で出入りしていたといいます。
長屋門の両脇に物置と味噌部屋がありました。
カマドのあるダイドコ、六帖と八帖の部屋が一室ずつあり、三帖の茶の間、十帖の広間、この広間には歳三が風呂上がりに相撲の張り手をしていた鍛錬の柱があり、この柱は今でも土方資料館ではりとして利用されています。さらにその奥に三帖の薬部屋、八帖の奥の間と次の間があり、便所が3つ。
庭には木小屋と呼ばれた石田散薬製造所、12坪の米蔵、井戸などがあり、その当時新政府の目を逃れるためにこの井戸の中に歳三の遺品もかなり処分されたということです。