きっと、大変なんだ。
背負うって。
でも誰でも皆、多かれ少なかれ色んな物語を背負ってるはずなんだ。
僕は…。
ちゃんと背負ってるかな…?
問いただしてみる。
あんまりちゃんと背負ってないみたいだ。
ってゆうか背負いたいものだけ背負って来た感じ。
なんでだろ?
それはきっと仕事にしても、人間関係にしても、ココロの赴かないところでは、自我とゆうか主観とゆうかを、切り離してただ義務を果して来たに過ぎないから…。
つまり気に入らない事象には、ココロここに在らず状態ってゆうか…だった。
深く踏み込もうとせず、考えを巡らせる気すらもなく、流れに漠然と身を任せて来た部分があるから。
逆に、自分の好むところは、好きなだけ踏み込んで飽くことない。
歩くのも覚束ない位に、疲れ切っても幸せ感じてしまえる。
端的にゆえば、社会の一員としての自分はある意味無気力で、社会での活動は、私的な世界観を生きる(活きる)為の方便に過ぎないとさえ思ってる節がある。
社会は社会。自分は自分と大それた区分けをして生きてる。
例えば、会社で唯一ココロが弾む時は、負け戦の時なのだよ。
勝つと決まってる事には、興味もないし役立たずでもある。
そんな時の僕は言わば、ボロ雑巾みたいなもんだ。
で、敗戦濃厚な時こそ気持ちが高ぶってしまうのだ。
だって、何でも出来るでしょ?
会社のエライ方々も、敗戦に絡みたくないから、責任逃れでいつの間にか去ってくし。
だもんで好き勝手にプランを練って、一暴れ出来る。
普段なら決してやれない様な事もやれちゃうんだ。
だから楽しい。
サジタリウスの矢がたった一矢で、さそりの心臓を狙うように、ギリギリの緊張感が魂を揺さぶるんだな。
あー…でも。
今はそれも過去のお話。
ココロも身体も、何のあてもない今。
海鳴る風に自由だ。
言い方変えれば、社会的無責任とも社会に対して不適格ともゆうんだろね。
それも良いかも。
うん。気に入った。