// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:250418
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ヴァーチャルの住人は潔癖症。
SUBTITLE:
〜 The sea of Tranquility.〜
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[List]

 

//[Body]
 
 数年前からヴァーチャルが現実世界に侵食していて、ときどき辟易する。韻を踏んでいるわけではない。
 
 たとえばインナカラーというヘアファッションがあるが、あれもヴァーチャルキャラクタが最初だったのではないだろうか。
 美容整形もそうだし、ポリコレもそう。人間が仮想に描いた理想を現実世界に押し付けて、現実世界が侵食されてゆく。
 もちろん「空を飛びたい」とか「遠い場所にいる人と会話をしたい」などという夢想をかつての人間は思い描き、今やそれはごく当たり前の日常として具現されている。
 
 ヴァーチャルが、人間の思い描いた夢想が現実を侵食し、塗り潰してゆくのは決して悪いことではないのだろうと思う。
 しかし、にもかかわらず、ときどき辟易する。韻を踏んでいるわけではない。
 
>>>

【潔癖症の人】

 潔癖症の人というのは、基本的にヴァーチャルの世界の住人である。
 僕の場合、自分が潔癖症であると自覚したのは8歳の頃だったが、潔癖症が思い描く理想を現実世界に展開することが不可能だと理解したのは23歳になってからである。
 
 たとえばバブル期の後半に、殺菌・抗菌・滅菌ブームというのがあった。
 今から数年前に疫病が流行した、それよりずっと昔のことである。
 当時は殺菌ウェットティッシュというごく当たり前の事実をわざわざネーミングされた商品に始まり、果ては筆記用具まで抗菌効果を謳うものが現れたりした。
 今なら抗菌スマートフォンケースだとか、液晶保護フィルム、といった商品が開発されることになるだろうか。
 
 やがて常在菌まで殺菌すると肉体の保護機能が阻害されるという健康被害に関する情報が一般化され、殺菌ブームは静かに幕を引いた。
 そうしたムーブメントは、ある種の潔癖症熱病だったといえるだろう。
 相当数の人が潔癖症になったわけだ。
 
 しかし一般に暮らす我々は、菌というものを(カビやキノコのように大型コロニィを形成したのでなければ)肉眼で把握できはしない。
 もちろん培地や反応薬、顕微鏡といった薬剤や装置を使うことで、菌の存在の有無を確認したり視認することは可能だ。
 けれどもそうした手順を踏んで正しく「ここには○○という菌が大量に存在しており、それによる健康被害確率は6割を超えるため、特定の方法による殺菌・消毒を要します」と言いきれる人は少ない。そもそも確認していないのだから当然だろう。
 
 潔癖症というのは極端になるほど神経質に、果ては神経症的になる。
 強迫観念が価値観に癒着し、どうしようもなく認知認識に影響を与え、行動に制限をもたらす。
 
 そこまで行き過ぎでなくとも、トイレに掃除機を掛けるのはよくない、とか言う人もいる。
 もちろん好みの問題だから好きにすればいいと思う。僕は玄関の床も掃除機を掛けてしまうことがあるくらい無神経である。
 いやもちろん玄関やトイレから居室に至る際、マスク付きの完全保護衣に着替えてクリーンルームを経由するというご家庭なら、トイレや玄関に掃除機を掛けるなんてもってのほかだと言えるだろうけれど、だいたい地続きで、空間も完全に遮断されているわけではない。
 
 我々人間が意識している以上に外界と屋内はひとつながりであり、寝室と浴室と玄関と屋外はだいたい同じものだと考えることも可能である。
 まぁそこまで極端に考えると潔癖症の人は生きていられなくなってしまうと思うが、神経質になって辛い思いをするのは自分だけでなく、周囲に巻き込まれる人もいるのだという自覚は欲しいところだ。
 
>>>

【究極の理想と単純化】

 いずれにしても潔癖症というのがときに実態を持たない(あるいは実態からかけ離れた)ある種の強迫観念の発露であるのは多くの人が認めるところだろう。
 彼ら彼女たちの求める究極的な清潔さなどというものは、日常生活に存在しない。
 それはあくまで仮定の、仮説上の理想的な状況でしかない。
 
 たとえば抵抗や摩擦を加味しない物理力学の設問などがそうだ。
 たとえば、と言っておきながら猫氏の喩えはかえって分かりにくい、という苦情を昔からIRLで受けることがある。
 べつにインテリぶっているつもりはなく、自分にとって手近な比喩の対象を選んでいるつもりだが「アタマ良さそうだけど、アタシよくわかんなーい」といううら若きガールもいるかもしれない(仮定の状況)。
 仕方ないので程度を低くしてもっと分かりやすくいうと、算数の問題で「たかし君は右手にメロンを3個、左手にグレープフルーツを5個持っています」などというものがあった場合、僕なら(最後まで聞かず)即座に「どんだけ手がでかいのでしょうか」という疑問が湧く。
 
 こうした「現実を無視した考え」が「仮定の」「理想的な」存在であり、脳内に投影するほか認識できないそれは、そのままヴァーチャルなものだ。
 もちろんそれが悪いということではない。
 僕などは長らく猫として生きているが、現実世界では人間の肉体に閉じ込められている。
 
 理想的な環境での演算(摩擦のない力学や持ちきれないフルーツの計算)と同じように、具現は不可能であっても、目的や近似を得るための便宜として理想化(単純化)して処理するのだと考えれば、理想化は決して愚劣な行為とは言い切れず、むしろ妥当で現実的な手法だと考えることができる。
 ために僕は複雑で処理が困難な現実よりも、モデル化され、理想化され、単純化されたヴァーチャルの方が好きなのではある。
 そして同時に、それが現実でないことを自覚してもいる。
 たとえばヴァーチャルな認識世界の僕は猫だけれど、現実世界の僕は肉体準拠で人間として他者から認識されるという程度の、単純な事実の追認である。
 
>>>

【潔癖と倫理】

 ここまでに書いた現実と仮想の違いを考えても、現実は複雑である一方、仮想は単純で理想化されており、ために仮定的/非現実的なものになりやすい。
 
 僕が子供の頃(およそ半世紀前)は、現実的でないものに熱中していると、大人たちにたしなめられたものだ。
「いい加減そんな子供の遊びは卒業して、現実に目を向けたらどうか」と。
 今でいうところのTVゲームやコスプレ、推し活などと呼ばれるものもそうだろう。
 当時の大人たちは「そんな無益なものに夢中になっていないで、空腹を満たし、財布を分厚くさせるものに集中なさい」という社会に生きていたのだと想像する。
 
 社会は今より雑多で猥雑に汚れており、人々は地に足のついた堅実な日常を至高としていたのかもしれない。
 そうした意味で、社会は清潔に単純化され、豊かな多様性を獲得した。
 今後はより一層の理想を具現すべく、人々は人のみならずすべての生命の権利を保護し、個々人の理想や主張やありようを受容する方向に進んでゆくだろう。
 ── 目先のリソースが尽きない限りは。
 
 そうなのだ。
 当時の社会は貧しくて、人々(とくに大人)は貪欲で飢えていた。
 それは飢えを知らない者の現実的な飢渇ばかりでなく、飢えを知る者の恐怖でありトラウマの体現だったのだろう。
 
 じつに世界は二大国の紛争危機に翻弄され、太平洋を超えるICBMを開発したとか、それを迎撃するレーザー兵器を開発したとか、そういう生臭い話が科学誌にも掲載されていた。
 極東の小国に過ぎない日本がその後経済大国に成長したことは、現在のような没落国家に向かっていることよりむしろ不思議なことである。
 
 人はずっとヴァーチャルを、理想を目指し、夢想に憧れ、その実現を願い、主に知識や技術によって具現した。
 より美しい、清浄な現実を夢見て、そして倫理の壁にぶつかる。
 
>>>

【ケダモノであることを選んだ私】

 ヒトゲノムの解析はキリスト教を崇拝する人からすれば神の領域に踏み込むものだったろう。
 日本でもクローン技術に対して嫌悪感を持つ人は少なくはない。胎児に満たない胚の段階で先天性異常を検知する技術すら嫌う人は嫌う。
 科学者に倫理がないわけではないが、倫理感情に振り回されていたら科学者では居られない。
 技術を確立するその陰で、人間も含む多くの生命が失われる。
 
 感謝だ贖罪だと、これまた感情論を持ち出す人も居るが、他者を殺さず生きることは少なくとも我々人類には不可能だ。
 動物を殺すと「可哀想」と言う人は多いが、うぬらは一体どうやって自身の肉体を存続させているのかと疑問に思う。
 
 私は禽獣なので、生き物を趣味でも殺す。
 端的に釣りなどがそうだ(何年も興じていないが)。
 食べる以上に、とにかく殺す。捕まえる。それが楽しい。
 
 悪趣味だろうか。
 この一文は、露悪に過ぎるだろうか。
 
>>>

【あなたは人ですか】

 かくして(隠しているのではない)現実はかように過酷であり、常にリソースの枯渇に怯える必要がある。
 コメがガソリンが輸入品が高いと騒いでいるが、それこそ生命の本来のありようなのだろう。
 衣食足りて礼節を知る、という言葉があったと思うが、礼節のない人間とはすなわち禽獣である。
 
 弱きものを虐げ、奪い、慰みものにする。
 釣り人が熊を狩ることはしないのと同様に。
 それでも自分だけは正しいという理由を作っては言い訳を続けるのだ。
 
>>>

【虚像の潔癖を剥いだら】

 夢を思い描き、理想を胸に未来を作る。それは素晴らしいことだ。
 しかしそれを現実に押し付けて実現することは、何かを踏みつけにすることでもある。
 飢えに怯えて動植物を養殖することは、つまり殺すための生命を育むことである。
 
 グロテスクというなら、生きることがそのままグロテスクと言える。
 その醜悪について、自身のそれにだけ目を背けるというのもまたひとつの理想化だろう。
 ヴァーチャルは非現実的なものだから、美化を否定すのもまた非現実的な愚行といえる。
 
 薄暗い話を続けてきたが、ここはひとつ開き直ってはいかがだろう。
 生きることはグロテスクであり、悪趣味なのだ。
 悪趣味という趣味まで捨ててしまったら、人間は本当に動物以下になってしまう。
 
 悪徳もひとつの徳だと考えれば、人間の行いはエントロピーに等しく、増大し続ける定めにある。
 
<立入制限区域>
 
>>>

【ヴァーチャル/リアルの逆侵食】

 ヴァーチャルが現実を侵食していると冒頭に書いた。
 しかし実際に侵食しているのは現実の方かもしれない。
 現実がそこまでリアルをヴァーチャルに押し付けなければ、ヴァーチャルは静かの海として、隔絶された世界のままにいられたのではないだろうか。
 
 たとえば最近は、ポリコレに毒されたゲームが増えた。
 つまりヴァーチャルから生まれた人間の理想が現実世界で結実し、それが人間の仮想世界に逆輸入されて生長しているようなものだ。
 という話の詳細はまたいずれ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Derailleur-Ecology-Kidding-Life-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF