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TITLE:
不定形の祈り。
SUBTITLE:
~ Unformatted grace. ~
Written by BlueCat

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 服を着ていないような寝起きの思考は、自分というものが一体何者であったのかを想起するのに、ときどき思った以上の時間を要することがある。

 ぐにゃぐにゃと不定型なそれにあって、僕はまず自分の身体を思い出す。
 すべての快も不快も、この人間の身体をフィルタして僕に到達する。
 そして僕が猫であることを思い出す。猫を自称している人間なのか、猫だったはずが呪いで人間になったのかは知らない。

 そのあたりになると、少し気持ちも落ち着く。
 人間であることは同じ人間達による形成圧力が高いため、たまに疲れてしまう。
 猫だったらそのあたりは緩いわけであり、人間でもなく猫でもないなら、どちらであることを強要されることもなく、とても安心というわけだ。

 もちろん僕の知人たちはすべて人間なので、彼ら彼女たちの前で僕は人間のフリをする。
 40年以上もそんなふうに暮らしているから、慣れたものである。
 ただときどき、ちょっと飲み過ぎた朝などに、自分が何者であったかを思い出すのに手間取る。
 相反するものを、あまりに多くパッケージしているために、破裂しそうになるのだろうか。

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 僕が直接の被害者になったことはないが、性被害やDV被害に遭った人間達が感じる無力感、人間に対する憎悪や恐怖や哀しみと絶望、そして自身を含めたすべての人間の死を希う類いの呪いについては自分なりに分かる。

 どうすれば、そこから人間は再び回帰できるだろう。
 人間を信じ、安心し、攻撃せず、赦し、つまりは自分を信じ、安心し、攻撃せず、許すことができるだろう。
 生きることを信じ、生きることに安心し、生きることを攻撃せず、生きることを許すことができるだろう。

 たとえば僕の場合は、動物と暮らすことでアニマルセラピィじみた効果をずっと受けてきた。
 子供の頃から(とくに)猫と暮らし、自身が猫であれと思うようになって久しいが、自身が猫であることは僕にとってある種の救いでもあるのだろう。

 苦しむべきは加害者なのだろうけれど、苦しむのは被害者だ。
 同じような構図は他にもあるのだろう。
 考えるべき人間と考える人間だとか、行動すべき人間と行動する人間だとか、そういった具合に、世界は理不尽や不条理を抱えて進んでゆく。

 だから怒りは怒りのまま、哀しみは哀しみのまま、不信は不信のまま、呪いとして作用する。
 その苦しみにあって、もしかしたら自分こそが加害者なのではないかと思ってしまうことさえあるように思う。
(僕が誰にも加害していないなどと、僕はまったく思っていないが)
 すべての他者を呪うことは、自身のすべてを呪うことに等しい。

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 僕が自分の寿命を設定したのは子供の頃だった。
 そんなに長く生きる必要を感じたことは無いし、生きることに意味を見出したこともない。
 ずっと死すべきものとして自分を定義してきた。
 自分に生きる価値がないと思ったわけではない。
 その価値は自分ではない誰かが決めると思っていたから。
 ただ純然と、殺すべき対象として自身を標的していた。

 それを普通に他の人に話せるようになったのは最近のことだ。
 理由はあったけれど、それを説明せずにも、ただそう思っていたと言えるようになった。
「猫くんの将来の夢は?」「僕を殺すことです」

 場当たり的に面白いと感じることばかりをしてきたわけではないが、心底嫌だと思ったことはしなかった。
 結果的に、好きなことばかりして生きてきた気がする。
 気がつけばまるで猫のように好き勝手に生きている。

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 昨日、裏庭のもっとも高い木を梳き剪定した。
 不安定な足場で不自然な姿勢を長時間続けるのは相応に負担だったようだ。
 作業を終えて夜、前橋の温泉に行き、3時頃まで飲酒して帰ると喉が痛かった。

 普段使わない筋肉が重く痛む。
「猫様は風邪の可能性があるためお休みください」と言われ、昼過ぎまで眠っていた。
 混乱しているのはそのためか。

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 おそらく人間に対する絶望は、けれども、たとえば怪我のように回復が可能ではないかと僕は考えている。
 だってそうでないなら救いがない。

 僕についていえば相当に回復して、あとは自分で心を開くだけだろうと認識している。
 問題は、それをするにも余命があまりないことだ。
 社会の一部としてうまく機能できるようになるということは、集団にとってかけがえのない領域をときに占有することでもある。

 そんなことを気にしていても仕方ないのだろうけれど、そんなことばかりを考えているうちに集団に帰属しない性質を持ってしまった。
 新しい友達ができそうになっても、それを避けるように逃げてしまう。
 親しくなりたそうにこちらを見ている人間に背を向ける。

 実のところ誰かに攻撃されるとか、何かを奪われるとか、そうした被害を恐れているのではない。
 僕はもう、自分のことなら十分に守るだけの強さがあって、誰にも自身を奪わせたりはしない。
 ただ一方で、誰かを攻撃しないかとか、誰かから何かを意図せず奪うことがないかと考えると、どうしても絶対にないとは言い切れなくて戸惑う。

 もちろん意図的に誰かを攻撃したり、何かを奪うつもりはない。
 ただ何の気なしの言動や、僕にとっての当たり前のことが、誰かを傷つけることがないと、僕には断定できない。
 先に述べた「集団におけるかけがえのない領域」に自分が位置することは、すなわち自分の不在によって一時的にであれその機能に空白を生むことも予定されることになる。

 仕事なら、ある程度の引き継ぎなどを各自の業務の一環として、生まれる空白のサイズを最小化する試みが実現している。
 では友人や恋人や家族なら、その不在による空白をどうすればいい。
 引き継ぎなんて概念自体が馬鹿げていると笑われても仕方ない気もする。
 最小化する手段さえない空白を、そのまま受け容れられる相手なら問題もないだろうけれど、自身のキャパシティを超えてしまうとしたら、それはどうすればよいのだろう。
 その空白を受ける側ではなく、与える側だと自分を定義した場合、どのような対策を取れるというのだろう。
(だから人間型の恋人には浮気相手を作ることを時に推奨してきた。もちろんそういうのはしようと思ってできることではないのだが、生きていれば色々なことがある。そのときは躊躇なくチャレンジしてほしいと思っていた ── 人生は保守と退屈の連続であると同時に、冒険と挑戦の連続でもあるのだから)

 友人や家族や恋人がいなくなることの痛みは、人によって大小はあるだろうけれど、なんらかの傷跡が残るのは通常だろう。
 そういった現象のすべてをまとめて引き受けることが可能な人もいるけれど、では人間のすべては、それを受け容れているだろうか。
 あらかじめ自身や他人の不在が予定された、カミサマのスケジュール表のようなものを見ているだろうか。

 俺も死ぬしあいつも死ぬ。
 嫌な奴も死ぬが、いい奴だって散々に死ぬ。
 いつだか分からない「いつか」。
 あるいは自身によって明確に設定された「いつか」であったとしても。
 その事実を、何の感慨もなく眺めることができるだろうか。

 


>>>

 それでも、そう。
 絶望や怒りや恐怖を抱え、後悔と呪いと加害に怯えるよりは、ずっといい生き方だろう。

「自殺したいと思った事なんて一度もない」と言う知人がいる。
 彼は僕より年上で、ロックバンドのヴォーカリストとして、破天荒な若者時代を過ごし、27歳で自分も死ぬだろうと思っていたのにそうでもなかったらしい。

 真意は分からないが、いずれにしても僕と違って迷いのない、強い生き方だ。

 自身も他人も呪って生きることだって、確かに愉しい。
 でも呪いの闇を知っていればこそ、それが深ければ深いほど、かすかな灯りのあたたかさを、僕らはよりよく知っているような、知ることができるような気がする。

 すべてを呪うすべての人が、いつか、その灯りとあたたかさを、自身の手で作り出せますように。
 誰かを照らし、あたためることができると、知ることができますように。






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Life-Link-Love-Recollect-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Connector-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Human-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:
 
 
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