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TITLE:
自走式書斎。
SUBTITLE:
~ Self-propelled study. ~
Written by BlueCat

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230316

 一昨日、キャンピングキャビンにいくつか装備を増設した。
 多段階調整が可能なテーブル兼荷物棚、折りたたみ式ステップが主要なもの。
 家電調度品ではカセットコンロに使うボンベの高騰を受けて電気ケトルを、万一のピンチに備えてポータブルトイレ(および固まる猫砂)を。

 ポータブルトイレは普段は椅子としても使えるのでテーブルと併せておよそ快適なデスクセットにすることができた。
 またお湯を ── ソーラパネル発蓄電により ── タダで沸かせるのは思ったより便利で、自宅でも湯を沸かすために車内に出向くようになった。

 そのようなわけで今日はテストを兼ねた外泊の2日目。
 先日は2連泊まで試したので、念のため3日分の着替えを持って出る。
 昨晩は結局、思い立ってから出発までに2時間ほどを要した。
 着替えや常用薬類はそれぞれ100円ショップのコンテナで管理するようにしているのだが、それでも持ち出し忘れや置き忘れに気付くことがあり、何度となく家とキャビンを往復することになった。



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 春秋は快適だし、冬もファンヒータや電気毛布といった暖房器具と(加湿器としても有用な)湯沸かし設備ができたことで過ごしやすい環境になった。
 水は外部供給でペットボトルを常備し、生活圏内のスーパーで再利用ボトルに給水してもらえるサービス(ボトルだけ購入する)を利用すればかなり安定する。
 皮膚粘膜の衛生管理(洗顔や歯磨き、うがい、身体の清拭など)や排泄問題も、基本は外部の設備に頼るが、お湯が沸くようになったおかげもあって内部で処理できることが増えた。

 仕事もなく接触する恋人もほとんどおらず友人も少ない環境下にあって、わざわざこうした「ミニマルな空間」を無駄に ── まるで茶室のように ── 作る意味を長らく自問自答してきたが、こうして中で過ごしていると答えが見えてくる気がする。

 専業主夫(仮想)兼庭師兼リフォーム業者兼無職(もうただの執事ってことでいいんじゃないかな)ということも相まって、自宅にいるとあれこれとすることが見つかってしまう。
 通りかかりに掃除機を掛けたく(なるようなレイアウトで設置しているので)なったり、使ったついでにトイレ掃除を始めたり、帰りに通りかかった洗濯物の量を確認して洗濯を始めたり、ついでにカプチーノを作り出したり、その最中に食材の在庫を確認しながら晩ごはんのメニューを考えたり、天気が良ければ庭木の剪定や今後の家庭菜園計画のための視察をしてみたり、ついつい無駄にPCの前で動画などを見ようとしてしまったり ── 。

 もちろんそれらは非常に自由に選択されるのだけれど、選択肢も含めた情報量の多さはそのまま思考や感覚が広く浅く広がることにも繋がる ── 僕は自身に認知症が始まっていると考えるようにしているので、これはなおさら致命的な問題を発生させうる。

 ところがこの茶室のような空間にやって来ると、そもそもできることが限られる。
 狭い空間に凝縮されて情報は限定され、選択できる行動も自ずと制限される。
 自宅サーバにアクセスできるから、ネットワーク繋がっていればアクセスできるデータは自宅と変わらないが、マシンパワーや画面サイズが小さくなるため、たとえば3DCADソフトを立ち上げながら動画を流し見しつつスマートフォンゲームのエミュレータを裏で動かすことはできない。
(やればできるだろうが無理にそんなことをする必要を感じない。なぜなら「外」にいるからだ)

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 窓から外が見える。
 飲み物を飲み、あるいは煙草を吸い、景色を楽しむ。
 コインパーキングだろうが道の駅だろうが公園だろうが、それは毎回新しい、普段と違う光景だ。

 眠り、目覚め、顔や身体を清拭し、食事をし、歯磨きし、排泄する。
 そういった「自宅では当たり前」のすべてが不便で、わずかずつ快適ではなくて、思い通りではなくて、その「当たり前ではないありよう」に新鮮さを感じる。

 だからといって、テントや野宿といった本格アウトドアほどの危険や不衛生や不便に見舞われるわけでもない。
  ── 肉体年齢(四捨五入を二度繰り返すと100歳)を差し置いて、僕は自身のヴァーチャル年齢を初老/老人としているので、泥や砂にまみれるような大冒険のリスクは避けつつ、庭木に掛けたハシゴから滑り落ちるかもしれないリスクは受け容れ、それでももっと安全でドキドキするような冒険は甘受したいのである。

 寝て起きて空腹を感じて食事し歯を磨く、それらひとつひとつがこんなに新鮮に感じたことはおそらく未就学(多分3歳)の頃以来ではないだろうか。
 家の外はもちろん中でさえ迷うほど広く、道は広く、人々は予測のつかない様式で行動していて、何が危険か安全かなんて概念さえなかった。
 夜のトイレはどこまでも遠く、食事は美味しいのだけれど億劫で(僕は食事という行為でひどく疲れるほど体力がなかった)、静かな暗闇になかなか寝付くことができず、目覚めの世界の騒々しさは鬱陶しかった。

 そして毎日が新鮮だった。
 だから今日が新鮮だと思える。

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 最近まですっかり忘れていたのだが、僕の中でおしゃべりをしてくれていたいくつもの仮想人格たちは眠りに就いて、以来とても静かになっている。
 そして眠ってしまったとばかり思っていた「6歳以前」の記憶や思考様式や感覚が、きちんと「僕」として呼吸していることに気付く。

 幸せだな、って思う。

 時間が有限だからこそ何人ぶんもの生涯を生きたいと思った。
 良いことも悪いことも、可能な限り、すべて経験したいと思った。
 だから今までも、自分で選び続けた、いい人生だったと思う。



 窓の外の、おそらく何でもないだろう景色を眺めて、素敵だと思う。
 ああ。僕は僕だったのかと、思う。

 長生きをしたいと思わないことは変わらない。
 内容が充実した、甘いことばかりでなく苦いことや辛いこともたくさん詰まった、濃い部分も薄い部分もマーブルになった、複雑な味わいの、そういう情報をいくつもの価値観をフィルタしながら生きて存えることができた。
 求めたサイズの自由が、求めた形で手に入った。それともこれは作り上げたものだろうか。

 もちろんいいことばかりではない。
 たくさんの人を傷つけ、期待を裏切り、絶望させたと思う。
 誰ひとりとして関わることなく生きることはできないのだから、それをなくすことも不可能だと思う。それでも今後は、可能な限り減らしたいと思う。
 誰の役に立つこともできないかもしれないことは、かつてなら自身の価値を認められないという意味で恐怖すべき認識だったろう。
 でも「誰かの役に立っている」という欺瞞のために誰かを犠牲にして傷つけるようなことはせずにいたい。
 本当の意味で、せめて誰かの役に立たなくても、誰かに迷惑を掛けたり、悲しい思いをさせずにいられればそれがよいと思うのだ。

 これからもたくさんのイキモノを殺すだろう。

 それでももう少し。
 せめて自分の決めた期限までは生きていたい。

 今日しか見られない景色の中で、そう思う。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Life-Link-Memory-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
  -Car-Human-Tool-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:窓辺に微睡む:
 
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