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TITLE:
選挙に出かけるアナーキスト。
Written by BlueCat
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220708
【期日前投票】
僕はアナーキストなので、投票には行かないことにしていた。
しかし時間的にも余裕ができてきたので、投票に出かけるようになった。
個人主義は国家の衰退を促進するし、自由主義というのは個々人の品位や能力によって社会の機能が決まるため、民度が低い状態にあってはいずれも理想的には機能しないと判断したこともある。
民度というのはネットスラングかと思っていたら、正しく辞書に載っていた。
正しく日本は民度が低下し続けていると私は思っている。
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政治の主義主張についてあれこれ論ずるつもりは特にない。
しかし、政治の主義主張について論ずることを嫌う傾向などについて、いくつか思うことがあるので書いておこうかな。
日本人が潜在的に話題として忌避するのが「政治/宗教/自分の月収」である。
(ちなみに僕は体験も含め、これらについて開示することにあまり抵抗がない)
僕の弟子なども(あんなにお金が好きな ── あるいは執着している ── のに)自分の月収だけは言わない。
じつにそういう人は多い。
まぁ、こちらとしても誰がいくらの手取りで就労していようとどうでもいいと言えばその通りである。
しかしローンを組んだりすれば(NISAなど、投資性金融商品口座を開設するときもだったか)必然に、年収くらいはざっくりと尋ねられるはずである。
僕自身は会社員の頃から、誰に尋ねられても気にせず答えていた。
僕という人間の就労に対して付けられた値段は、僕の ── あるいはその切り売りしている時間の ── 価値ではなく、意味でもなく、従って能力を示すものでもなく、単に会社という組織が僕に対して払うことのできる数値でしかなかったからだ。
つまるところ会社組織が「オカネモチー」であれば、そこに属する部品の値段も青天井になるかもしれないが、会社組織だって、常々オカネモチーなわけではないから、細々と経営を続ける組織の中にあってはいかに有能であろうと支払われる賃金には限界がある。
ゆえに彼我の差は、異なる集団に属している場合はもちろんのこと、同一集団に属している場合であっても、意味を持たない。
たとえばa社に勤務するAさんがb社に勤務するBさんより手取り賃金が多かったとしても、AさんがBさんより無能で、どうしようもない人間である可能性は否定できない。
それはa社がa社の基準でAさんに渡すことになっている契約の問題であり、先に述べた組織の経済力はもちろん、能力評価に対する倫理であるとか、内部の人間関係などという本来の業務にほとんど関係しない要素によっても影響を受けるからである。
誰かと比較して賃金が安かろうと高かろうと、その個体のもつ価値に変化はない。
相対的な比較は意味を持たない。
では同一組織内ならどうなのかというと、多少なり年功序列の傾向はあるだろうし(あってもよいだろうし)、だいたいにおいて現場で実力を発揮して会社に利益を生み出す人間よりも、それらを管理する人間の方が(実務能力はもちろん、もしかしたら管理能力そのものさえ劣っていても)高めの賃金を受け取るようにできている。
会社組織の賃金の基本は「ご苦労賃」なのである。
利益を生み出したことによるインセンティブ(歩合給)100%にしているならば、多少は「能力に応じた給与」と呼べるだろうけれど、そんなことはおそらく違法に近いはずだ。
結果的に、賃金給与について彼我に差があっても恥ずかしいことは何もないといえる。
むしろ使い方に人間性(あるいは獣性)が現れるはずで、恥ずかしい使い方をしていないかということをたまには振り返りたい。
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営利組織に話を戻すと、利益を生み出さない諸々の作業や業務ややり取りが、組織を円滑に運び、結果的に利益を作っていることは否定の余地もない。
価値は見えない(観察者が判定できない)ところにも隠れている。
真の価値や意味とはそのくらい臆病かつ恥ずかしがり屋で、そうした繊細なメカニズムはカミサマしか知らないのだと、ファンタジックに言い回すこともできる。
旧来の日本はそうした奥ゆかしさを大切にしていたから、繊細なメカニズムの深奥にある些事さえも汲み取っていたのだろう。もちろんそれには弊害もあるだろうが、粗野でがさつであっても良しとはしない部分は有用に思える。
翻って現代は、粗野でがさつで鈍感で無能な管理職であっても、分かりやすい判定ができるような価値をアッピルした者が勝つので、必然に繊細なメカニズムが失われるか、あるいは弱者に押し付けられてゆくのだろう。
しかしトイレを掃除する人がいなければ、会社のイメージがダウンして、売上げが低下する可能性だってある。
少なくとも僕はトイレとその掃除をないがしろにしている会社や店舗や人間は嫌いである。
狩りをするイキモノとして排泄のあとを濁さない意識は大事だと思うし、ビジネスが狩りでないなどという綺麗ごとを僕は信じない。
種を蒔けば作物が手に入るなんて、地主や役人の発想である。
といって、昨今の政治家は国民という種をよりよく育てることをさえしないから、国家が痩せるのである。
そうは言っても、国民が政治家を育てるわけではない。
国家における家長とは、すなわち政治家であるから、政治家が国民ではなく、それ以外の何かを大切にした結果が今のこの国家なのだろう。
ゆとり教育が悪かったとは僕は思っていないが、人間らしい人間が次々失われている社会を見ていると、その文化基盤にある価値観は、どれほど貧しくなっているかと悲嘆させられる。
円周率は3でも良いが、社会を構成する上で経済や数値より大事なこともあるのだと、心から思っている人間が多い社会であればと思う。
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おそらく「政治/宗教/自分の月収」について開示することは、何らかの摩擦抵抗が発生し、それによって人間関係に支障を来すと考えている人がいるのだろう。
もしそんなことで人間関係がおかしくなるのだとすれば、そういう人間関係はおかしくしておいた方がいいだろう。
たとえば僕の弟子はある宗教の結構熱心な信者であり、僕もときどき連れて行かれたが、気が向かないと全然行かないどころか、その信仰を腐すことも平気でする。それでもお互いの人間関係には問題がない。むしろ信頼関係の確認要素ですらである。
たとえば友人のBPが妻子持ちなのにときどき不倫をしている事実を僕は知っているが、それでとやかく責め立てる気にもならないのでそっとしている ── ときどき「奥様に会ったときにどんな顔をすればいいのか困る」などと非難がましく笑いのネタにするが。
僕が困ればBPは助けてくれるし逆も然りだ。たまに奥様と顔を合わせるとき、どんな顔をしていればいいのか悩むくらいである。
対立的な価値観を持つ人とであっても、手を繋いでいつづけることは可能だし、容易だ。
それを畏れ、それができない ── あるいは困難だ ── と思っている人は、単純にその人自身が、対立的な価値観を持つ人を攻撃する傾向が強いからだろうと想像する。
他人より給与が低いと嗤われると思っている人は、他人の給与が低いと嗤うのではないだろうか。
他人の不倫やパートナーの浮気について烈火のごとく怒る人は、なんというか、人間の機微についての考察が浅い気がする。
他人は他人である。
自分以外はすべて他人だし、それと手を繋ぐのにあれこれむつかしい条件を積み重ねて自身を省みることなく見識高いカオをしているようでは、空回りしている婚活難民のようになってしまうぞ(弟子の顔を思い浮かべつつ)。
政治や宗教は、人間や社会のために役立つべくしてあるはずなので、それについて議論することを恐れたりするのは本末転倒というか、単純に社会性を逸脱する行為とさえ思える。
僕は本来個人主義的な人間なのだが ── 事実、その思想が具現したような生活をしている ── 、同時に天邪鬼なので、多数が個人主義的であることを認識した昨今、脳内だけ社会派になりつつある。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫α:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-
[Module]
-Condencer-Generator-Reactor-
[Object]
-Human-Koban-
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[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
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