210414
春だ。日差しだ。発熱だ。
春が来た。
僕の大嫌いな、生命の躍動する、春だ。
「けい○ん!」とある「○」に、貴方なら何を当てはめるだろう。
「お」と答えたあなたはアニメ好きだ。しかもちょっと古い(笑)。
「ふ」と答えた貴方は、農業ボーイ/園芸ガールに違いない。
「けいふん」すなわち鶏の糞だ。これが安い。
15kgで120円ほどだ。1kgで8円ほどである。
100gではなく、1,000gで8円だ。これは安い。
ただし農業/園芸に興味のない人には、何の役にも立たない。
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咳の止まない身体をジャンプスーツに押し込めて、タオルやゴーグルや防塵マスクで頭部を保護し、長靴を履いて出かける先は、玄関から十数歩の納屋である。
「屋外用薪ストーブ」から昨日の灰を掻き出して、新たな薪を組み上げる。
組み上げる、というのは、ただ放り込んで火を付ければ燃えるものではないからだ。そこにはセオリィがあり、順序があり、摂理がある。
抜いたいわゆる雑草はもちろん、下ろした枝も、幹から切り倒した一部の庭木も放置して乾燥させている。だから燃料は潤沢だ。
ストーブの炎が安定したら、先ほど集めた灰を庭の穴に埋める。
そうだ。抽象的、概念的な「裏庭の穴」を僕は持っている。これは固有の能力と呼んでも構わないのだが、こっちはちがう。具象の、現実的な、庭の穴である。
そこには切り倒された木の切り株があり、その根を掘り起こ(そうとして途中で飽きて放り出)している跡があり、そして畑として利用すべく土を掘り返されているエリアがある。
すなわちこれ開墾行為。
畑として用意された土壌を、畑として使うことの利便を僕は知らない。
そこは放置された植樹の残る庭の花壇であり、木の根が巡り、石が放置され、土は硬く、木々の一部は手入れがされなかったため病虫害に冒されている。
2月の頃に、裏庭のお稲荷様の両脇を固める木の一方を、ほぼ丸裸にした。
枝が混んで虫が湧き、病に罹っていたためだ。
二股になった ── あるいは人工的にそうさせた ── 幹を、上部で人工的に一本に継いでいるため、その股の部分が影になる。
ここに虫が付きやすく、継ぎ方が悪かったのか、その後の手入れが悪かったのか、部分的に樹皮が剥げて、むき出しになった幹が部分的に枯死したり、虚ができてそこに虫が住み着いたりしている。
定期的に枝が下ろされていれば、通気と日差しと鳥によって、虫は減るのだが、長らく放置されていたそれは、もはや祟られた木にさえ見えた。
その大量の枝を下ろしてひと月ほどで、他の木に、その虫たちが寄生しているのを確認し、次々枝を下ろすことになった。
2年ほど前から気にかけていた椿の木の一本は、病に冒されてるのか寿命なのか、生育が非常に悪いので、根元から切り倒した。
株が小さかったうちはよいのだろうけれど、もはや庭に育った木の多くはひとつひとつが大きくなり、過密になって手を入れにくい部分もある。
ために部分的に間引くように手を入れている。
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耕運機が欲しいのだ。
しかしこの数ヶ月、僕は自由になるお金に乏しい。
昨年に基礎と屋根に補強修繕を入れた代金を、分割で払い続けている。
毎月およそ300k円。春先は確定申告などもあって、出費が多かった。
無職であると言っているが、収入ありきで生活しているので、出費が多いと遊ぶお金はなくなる。
ために耕運機は買えず、鍬で耕しているわけである。
ちなみに耕運機はおよそ80k円前後でエンジン式のものが買える。
最近、TVゲームに面白みを感じなくなったのは、庭での作業の方が、危険も恐怖も大きいからだと気づいた。
木を切るにも、風向きや刃の入れ方に注意し、幹を倒すときは倒れる方向まで考える必要がある。
数々の虫たちは、虫嫌いの僕にとって、ほとんどは恐怖の対象だ。
しかし恐怖を感じるシステムにもいい加減ほころびが生じているらしく、その恐怖ごと、虫を眺めていたりする。
子供の頃から、恐怖に対して僕は悲鳴を上げたり逃げたりすることがない。
ただぼうっと、恐怖し続ける。
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子供の頃といえば、友達と川に遊びに行ったことがある。
子供には少々深くて、広い川だった。
友達の1人が流されてしまったのだけれど、僕は呆然とそれを眺めていたため、あとで別の友達にたしなめられた。
(最終的に、流された友達は、同行していた友達によって助けられた。)
僕は子供の頃から、瞬発力に欠けるようだ。
頭の回転もそうだし、身体の反応も、感情も、短時間の変化に、素早く対応することができない。
たとえば皮膚を擦り剥く。
かなり激しい痛みを感じるのだけれど、僕は呆然としてしまう。
どうすればいいのか、瞬時には分からない。
だからじいっと、その痛みを痛む。
あふれる血や、ざらざらと荒れ傷ついた表皮を呆然と眺めて、対処法をぼんやり考える。
水でよく流してから石けんで綺麗に洗うと、すぐに痛みが引き、治りも早く化膿しないことを、ある時期から僕は覚えた。
だから恐怖も同様、僕はぼうっと恐怖し続ける。
悲鳴を上げることは少ないし、まして瞬発的に逃げ出したり、立ち向かったりはできない。そんな気力はないし、身体に反応させることもできない。
それは知らない人からすると、ちょっとした豪気に見えるのかもしれない。
しかし事実は異なる。
僕は虫ひとつにも、激しく恐怖している。
そして悲鳴を上げることもできず、ただただ身体を硬直させて、恐怖している。
まるでこの心も身体も、たまたま与えられた使い慣れない道具のように。
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庭を開墾していて思うのだ。
枝を下ろし、幹を切り、根を鍬でたたき切りながら思うのだ。
いわゆる雑草たちを抜き、その根元で慌てふためく微細な昆虫を眺めて思うのだ。
人間のエゴは、こうもはた迷惑なものなのかと。
もちろん枝の剪定をすることで、木は枝が過密になることがなくなり、より生育しやすいようになる。
いわゆる雑草たちを取り除けば、代わりに自生している名前も知らない可憐な花を咲かせる草(まぁ、名前を知らない時点で雑草といえば雑草だ)がそこに居着く。
木がなくなり、土を耕し、土壌環境を整備すれば、作物も含め、新しい生態系がそこに生まれる。
しかしそれは結局、僕のエゴの発露ではある。
自分が生きるためという言い訳のもとに、どれくらい育てて、どれくらい殺すのだろうかと、そのひとつひとつ、昔からこの先までを考えると途方に暮れる。
僕ひとりでそうなのに、この世界にはたくさんの人間がいて、オーバーフロウする。
もちろん、草木や昆虫にもエゴがある。
だからそうしたエゴの一つ一つを気に病んだり、その数の多さに圧倒されている場合ではないのだろう。
自分のエゴを、脇目も振らず発露するのが本来のありようなのだろう。
エゴとはすなわち、生きる力のことではないか。
まぁ、それが僕にはかなり乏しいのだろうけれど。
乏しいからこそ、眩しいほど発露されているそれらに、僕は目眩する。
春が来た。
僕の大嫌いな、生命が躍動する、春だ。
鶏糞やら、卵殻粉末やら、草木の灰やらを、庭の土に混ぜるため、鍬を振るいながら思う。
危険も恐怖も大きく、カタチとして得られるものは決して多くはない。
(昨年など、ブロッコリィとニンニクは全滅し、ナスはひと株不成りで、トマトの生育は悪く、パプリカは枯れ、オクラも聞いていたほどは成らなかった)
ゲームは勝ちが約束されていて、だから、安心できる箱庭だった。
ヴァーチャルから少し離れる気になったのは、もう、何もかもがどうでもよくなったからなのかもしれない。
