質問を受けたのでシリーズ。
テコの釣り合いのような話を生徒に聞かせていたところ、こんな質問を受けました。
■質問
先生:
吊り合ったテコではー、左右のぉー、何とかでぇー、かんとかでぇー…
生徒:
それは分かりました。でも、もし支点がなかったら、右と左はあるんですか?
??
私としたことが、相手の実力を見誤ってしまったのかもしれません。
この子は、そもそも「左右とは何か」と聞いています。
■端的な結論
結論から話せば、中心がなければ左右は存在しません。
右がなければ、左も存在しないように。
左右は相対的な概念ですから、片方がなればもう片方は消えてしまうのです。
さて、こんな説明で納得してくれるでしょうか。
私は無理だと思います。
質問の直接の答えにはなっていても、欲しがっているもを与えてはいないからです。
「右と左はあるんですか?」
この問いは、本質的に、「分けるとは何か」という問いに等しいのです。
■分け方
右: right
左: left
右の何が right(正しい)のかと、疑問に思ったことはありませんか。
left の語源は、lety です。
lety には、「弱い」「劣った」という意味があります。
かつての西洋世界には、左利きは極めて不利な(おそらく戦いに)ものという認識がありました。※何に不利だったかは諸説あります
ともかく、当時の価値観では左利きは劣っており、右利きこそが正しい(right)というわけです。
分けることは、理解と意味付け、優劣を生むのです。
■言語と世界
ところ変わって、アマゾンに住むピダハン族をご存知でしょうか。
彼らの言語には、左右を表す言葉がありません。
左右の概念、そのものがないのです。
「右の手」を表現したい時、その手が川の上流方向にあれば、「川の上流方向にある手」といった具合に表現します。
彼らは、自分の身体を環境の一部として捉えており、自己と周囲の区別は極めて曖昧です。
本来的に彼らの言語には人称すらなく、自己と他者の区別すら曖昧なのです。
彼らを前に、事細かに分類して名前を付ける現代的ダイバーシティーなど意味を成しません。
元から区別がないのですから。
啓蒙すべく西洋から派遣された伝道師は、彼らに文明と宗教を与えようとしましたが、失敗に終わるどころか、後に伝道師は神を捨てました。
彼らには、一切の悩みも苦しみも、無かったからです。
■学ぶ
知識や知恵を得ることは、どれほど幸福に寄与するのでしょうか。
私は時々、自分の仕事を疑問に思います。
もちろん、「知識は悪だ!」などといった危険思想は持ち合わせていません。
一つ言えるのは、言葉は確かに世界を構築する道具であることです。
どのような知識、どのような言葉を学ぶかによって、人はまるで異なる世界を得るはずです。
それは、手放しで喜ぶべきことでもありません。
学ぶ、分かる、分けるとは、そういうことと思います。

