■何のために勉強するのか
「何のために勉強しなければならないのか」
勉強が辛くなってくると、よくこういう質問を受けます。
最も簡単な説明は、「頑張れば良いことがある」でしょうか。
報酬系を刺激することで良い軌道に乗せる、という手法は間違いではありませんから、頑張ればアメをあげたって良いと思います。
大人であっても、仕事のモチベーションの一部が報酬系によって支えられているのは事実です。※報酬系とは要はドーパミン神経です
ただ、「何のために勉強を」という質問が本当の理由を問うものであった時、この説明は限界を迎えます。
「賢い人になるため」
「将来の選択肢を増やすため」
「好きなことをやるため」
「お金を稼ぐため」
これらの説明は、「自分には必要ない」と拒否されてしまえば、それで終わりです。
■自分のため
「自分のために勉強する」
この言葉への違和感について、以前書いたことがあります。
人が私益を求めることは良いことと思いますが、同時に公益についても考えられなければいけません。
人は社会的な生き物ですから、その認識を育てることは教育の重要な役割と思います。
■人のため
「人のために勉強する」
何も、道徳の話ではありません。
社会とのつながりの中で、自分の存在を捉えられるようになることは大切です。
人のために役立つからこそ利益を享受できる。
この意識が抜けていると、勉強につまずいた時、「必要ない」と切り捨ててしまいがちです。
ほとんどの大人が「因数分解」や「化学反応式」など使わないというのは確かにその通りですが、もし誰も勉強しなければ、社会は衰退して行きます。
科学は発展せず、車や道路は作られず、私たちは災害から身を守ることもできません。
iphone や youtube など、もちろん存在出来ません。
子供の頃は誰のどんな才能が伸びていくかは分かりませんから、社会はある程度の勉強を一律で皆に強いているというわけです。
嫌いな科目があっても、あるいは全科目が嫌いでも、残念ながら避けることは出来ません。
これは、公益のための犠牲と言えます。
■税
勉強には、公益のために個人に課された負担という側面があります。
大人はそれを労働や税金として納めますが、学制発布以降、子どもは勉強という行為を通して社会に納めています。
社会からの利益を享受する限り、子どもであっても対価を支払わなければなりません。
義務教育には人道的な意味もありますが、全体の利益のために敷かれたルールでもあります。
■まとめ
この前提があるために、私は「勉強は楽しくやった方が良い」と伝えます。
どうせやるなら楽しい方が良いですし、多少は出来た方が楽になるからです。
少し難しい理屈ですから、この説明はある程度の年齢を要します。
小さな子に説明するなら、「勉強は自分のためでもあり人のためでもある」で良いと思います。
また、課された義務を当たり前のこととして行うためには、アレルギーを起こさない程度の、適度な習慣付けが必要と思います。
C.O.D. Club