前回の記事で、江戸時代には既に方程式があったことに触れました。

今日は、番外編としてその辺りのお話をして、長い割り算シリーズを終えたいと思います。



■二大算術家

江戸時代の大算術家である会田安明(あいだやすあき)は、『開方変商術』の中で、方程式の解き方を記しました。


『開方変商術』最上流 会田安明

驚くべき高次方程式の解法が示されています。




一方、会田と同じく江戸の大算術家であった藤田貞資(ふじたさだすけ)は、これに激しく対抗し、『精要算法』を著します。

『精要算法』藤田貞資


江戸を代表する2人の算術家は大変に仲が悪く、論争を繰り広げます。



■論争


今の算数に用の用あり、無用の用あり、無用の無用あり。

(訳)今の算術って役に立たないものが多すぎ。私が役に立つ算術っちゅうもんを教えたる。

『精要算法』藤田貞資



これが日本の和算史における、「終わりの始まり」です。

論争相手をやり込めようとするがあまり、学問の発展において、致命的な思想を含んでいるからです。


「役立たないものは要らない」と。



■終焉


かつて和算は、オイラー関数やラプラス展開、ベルヌーイ数をヨーロッパより早く発見しています。

当時の日本は、和算という数学とは異なる知の体系を使い、世界の頂点に立っていたのです。


西洋の影響を受けつつも独自に発達した和算ですが、「実用における有効性」に囚われ始めたことが、結果として衰退を招きました。

「役に立つものだけが正しい」という考えが、学問としての和算を終わらせたのです。




和算を廃止し、洋算を専(もっぱ)ら用ふるべし。

1872年(明治5年)学制



これにより、和算は表舞台から姿を消すこととなります。



■引き継がれた意志

明治の学制発布に際し、和算は数学に取って代わられました。

統率の取れた学問体系も手伝って、その後、数学は日本中に広がり、今や日本中の子どもたちが学んでいます。

では、和算は完全に日本から消えしまったのでしょうか。




鶴亀算

旅人算

…算



現代日本にも、かろうじて和算のDNAは引き継がれているのです。


大きな歴史の流れの中で自分の立ち位置を知れば、自分が何をしているかを知ります。






〜割算シリーズ・完〜






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