父はどちらかというと口下手だったかもしれない。
用も無い時、自分から口を切って、その場の空気を作っていくタイプではなかった。どちらかというとその面については受け身であって、誰かが積極的に話を進めれば、それに応じて話を進める方だった。何事も相手の出方を見てそれに対応する方だったと思う。
ただ無口というわけでもなかった。
たとえば、家族で一緒にテレビを見る時、たとえば野球を見ている時に、これは私が小学生で、巨人V9時代のことであるが、「なんだい、巨人ばっか勝って面白しぇぐねえなあ。」とよく言っていた。真面目にというよりは、ちょっと皮肉っぽく、茶化すように言うのだ。因みに、女川のおんちゃん(淳こちゃん)によると、父は本当に野球が好きで、若い頃は頻繁に見に行っていたとのこと。
また、私と兄が小学校高学年ぐらいにテレビでプロレスを一生懸命見ていると、「なーに、八百長なんだから。」などと半ばからかいながら言って、兄(忠典)から「だったら見ねげいっちゃぁ!!」などと激しく突っ込まれていた。そもそも私たちの幼少時からプロレスにチャンネルを合わせていたのは父である。何を今さら、である。
家族の前と、他所様の前とでは、当然ちがいはあろうが、我々子供たちには、こういう軽口は結構たたいていたのだ。
それでも、父が所謂「おしゃべり」でないことは確かだ。そして、むしろ「しゃべらない」ことによって何かを語ることもあった。
それについて一番印象深いのは、戦争について私が質問した時である。
1960年生まれの私は、言うまでもなく戦争を知らず、さらには第二次世界大戦で日本は過ちを犯した、という考えを植えつけられて育ってきた。私はそのすべてについて戦後教育に帰するつもりはない。それは教育のみならず政治、思想、マスコミ、それら全てにおいて社会の大勢がそうであったと言ったほうが正しい。そういう空気の中で育ってきたということだ。
そういう私が、小学校高学年頃、夏休みの「終戦記念日」あたりに、戦争を泥沼化させていった日本についてのテレビ番組を父と一緒に見ていて、「なぜ日本は勝てると思えない戦争をしたのか」、「なぜ非道な軍国主義に走ったのか」などの質問をしたことがある。
父の答えは、「あの頃はみんなそうだったんだ。」というものであった。
私はやや拍子抜けした。
戦時中をリアルタイムで過ごした人間として、戦時中の軍隊の理不尽さ、その時代の辛さなどを、その時代を生きた人間として後世に語り継ぐ義務のようなものがあるのではないかと子供ながらに感じていたし、だから戦時中の日本がいかに誤った状態に陥っていたのかについて父が具体的に語ることを私は期待していた。
しかし、父は多くを語らなかった。それどころか父の言葉には、戦時中の日本の動向について、あまり否定的な響きがなかったように思えた。それも私には不満だった。
しかし、誰が賢く誰が賢くないかは本当にわからない。
私も大人になるにつれ、戦前の日本の状況が単純でないことは分かってくる。あまつさえ、日本が世界で置かれた当時の立場が物理的に非常に苦しいものであったこと。欧米列強の植民地主義政策のなか日本も植民地化されるのではないかという強迫観念が日本人全体にあったであろうこと。当時の世論の動向が必ずしも戦争反対ではなかったこと。これらのことが日本を戦争から退かせることをためらわせたであろうこと…
敗戦や惨状という結果から過去を批判することは容易い。しかし、それに至る過程の中に何某かの必然性と真実があったことまで否定したり捻じ曲げたりすることになるとしたら、それはどうだろうか。正当な評価と言えるだろうか。そういう抗いのようなものが父の中にはあったように思われる。
当時の空気を吸い、そこに生きた人間でなければわからないことを見落とすとしたら、それはたんなる欠席裁判でしかない。
父は、少年時代であったけれど、戦時中を生きた人間として、彼なりの誠実な仕方で責任をとったのだ。と、今はそう思う。
そういうふうにして、父は「語らぬ人」であった。いや「語らないことによって語る」(talking without talking)人であった。
そして、何を語り、何を語らぬべきかについて、彼は絶対に誤らなかった。少なくとも私の前ではそうである。
付記
恵美子さん(忠典の嫁)が足の怪我で入院(1月12日頃)。女川のモコちゃん(智子さん、現在仙台在住)が見舞いに来てくれたとのこと。この場を借りて感謝。ありがとうございます。
用も無い時、自分から口を切って、その場の空気を作っていくタイプではなかった。どちらかというとその面については受け身であって、誰かが積極的に話を進めれば、それに応じて話を進める方だった。何事も相手の出方を見てそれに対応する方だったと思う。
ただ無口というわけでもなかった。
たとえば、家族で一緒にテレビを見る時、たとえば野球を見ている時に、これは私が小学生で、巨人V9時代のことであるが、「なんだい、巨人ばっか勝って面白しぇぐねえなあ。」とよく言っていた。真面目にというよりは、ちょっと皮肉っぽく、茶化すように言うのだ。因みに、女川のおんちゃん(淳こちゃん)によると、父は本当に野球が好きで、若い頃は頻繁に見に行っていたとのこと。
また、私と兄が小学校高学年ぐらいにテレビでプロレスを一生懸命見ていると、「なーに、八百長なんだから。」などと半ばからかいながら言って、兄(忠典)から「だったら見ねげいっちゃぁ!!」などと激しく突っ込まれていた。そもそも私たちの幼少時からプロレスにチャンネルを合わせていたのは父である。何を今さら、である。
家族の前と、他所様の前とでは、当然ちがいはあろうが、我々子供たちには、こういう軽口は結構たたいていたのだ。
それでも、父が所謂「おしゃべり」でないことは確かだ。そして、むしろ「しゃべらない」ことによって何かを語ることもあった。
それについて一番印象深いのは、戦争について私が質問した時である。
1960年生まれの私は、言うまでもなく戦争を知らず、さらには第二次世界大戦で日本は過ちを犯した、という考えを植えつけられて育ってきた。私はそのすべてについて戦後教育に帰するつもりはない。それは教育のみならず政治、思想、マスコミ、それら全てにおいて社会の大勢がそうであったと言ったほうが正しい。そういう空気の中で育ってきたということだ。
そういう私が、小学校高学年頃、夏休みの「終戦記念日」あたりに、戦争を泥沼化させていった日本についてのテレビ番組を父と一緒に見ていて、「なぜ日本は勝てると思えない戦争をしたのか」、「なぜ非道な軍国主義に走ったのか」などの質問をしたことがある。
父の答えは、「あの頃はみんなそうだったんだ。」というものであった。
私はやや拍子抜けした。
戦時中をリアルタイムで過ごした人間として、戦時中の軍隊の理不尽さ、その時代の辛さなどを、その時代を生きた人間として後世に語り継ぐ義務のようなものがあるのではないかと子供ながらに感じていたし、だから戦時中の日本がいかに誤った状態に陥っていたのかについて父が具体的に語ることを私は期待していた。
しかし、父は多くを語らなかった。それどころか父の言葉には、戦時中の日本の動向について、あまり否定的な響きがなかったように思えた。それも私には不満だった。
しかし、誰が賢く誰が賢くないかは本当にわからない。
私も大人になるにつれ、戦前の日本の状況が単純でないことは分かってくる。あまつさえ、日本が世界で置かれた当時の立場が物理的に非常に苦しいものであったこと。欧米列強の植民地主義政策のなか日本も植民地化されるのではないかという強迫観念が日本人全体にあったであろうこと。当時の世論の動向が必ずしも戦争反対ではなかったこと。これらのことが日本を戦争から退かせることをためらわせたであろうこと…
敗戦や惨状という結果から過去を批判することは容易い。しかし、それに至る過程の中に何某かの必然性と真実があったことまで否定したり捻じ曲げたりすることになるとしたら、それはどうだろうか。正当な評価と言えるだろうか。そういう抗いのようなものが父の中にはあったように思われる。
当時の空気を吸い、そこに生きた人間でなければわからないことを見落とすとしたら、それはたんなる欠席裁判でしかない。
父は、少年時代であったけれど、戦時中を生きた人間として、彼なりの誠実な仕方で責任をとったのだ。と、今はそう思う。
そういうふうにして、父は「語らぬ人」であった。いや「語らないことによって語る」(talking without talking)人であった。
そして、何を語り、何を語らぬべきかについて、彼は絶対に誤らなかった。少なくとも私の前ではそうである。
付記
恵美子さん(忠典の嫁)が足の怪我で入院(1月12日頃)。女川のモコちゃん(智子さん、現在仙台在住)が見舞いに来てくれたとのこと。この場を借りて感謝。ありがとうございます。