アドレリアン本郷ひろなかの「アドラー心理学を生きる」 第5回目です。30代の頃の私の歴史を書きます。
 
SMILEを受講した後は、野田俊作先生(当時、日本アドラー心理学会の会長をされていたと思います。)が福岡に定期的に講演をしにらっしゃるということだったので、何度か聞きに行きました。
 
野田先生のオープンカウンセリングもいくつか拝見させていただきました。
 
野田俊作先生からの学びはアドラー心理学の理論を理解するのにとても参考になりました。ただ、「アドラー心理学を生きる」という気付きには全く至りませんでした。
 
大阪まで行き、アドラー心理学会のアドラー心理学基礎講座を受講しました。講師のお一人は、岸見一郎先生でした。
 
岸見一郎先生の講座は、とても印象的でした。講座の中身よりも、岸見一郎先生の発せられる「裏腹のなさ」のような人格的雰囲気が印象的でした。ああ、アドラー心理学って、やっていくとこんなにすごい人になれるのだ。と思ったのを今でも覚えています。
 
岸見一郎先生の講座の中で、「完全にライフスタイルを変えてしまうのに、今まで生きてきた年齢の約半分かかる。」と伺って、そんなに長くかかるんだと思ったのですが、当時32歳。私は、16年どころか、もっとかかったように思います。劣等生なのでしょう。まあ、劣等生の自分をありのままに受け入れていますが。
 
学びはいろいろしたのですが、人と比べたり、競争をする癖、闘う癖は、根強く続けていました。
 
アドラー心理学の学びに関しても、「ほかの人には負けないぞ。」的な態度があったと思います。アドラー心理学でも競争していたのですね。
 
もしかすると、並行して交流分析(TA心理学)の勉強もしていたので、そのせいで、アドラー心理学の実践に身が入らなったのかもしれません。
 
交流分析がダメだということではないのです。交流分析は、第三潮流の一つで同じ人間主義心理学なのですが、どうしてもアドラー心理学の徹底的な目的論や全体論とずれていて、今では私の中で基盤としてアドラー心理学的なとらえ方+交流分析の知見として整理されていますが、当時は私を混乱させていたのには間違いありません。
 
当時赴任していた中学校では、私から見ると生徒に対して高圧的な同学年の先生がいて対立していました。また、校長先生も、私から見ると高圧的で支配的な方に見えたので、私の戦い癖が出て、いろいろと反発していました。そして、あっけなく望まぬ学校へと飛ばされました。
 
私の成育歴の中で、父と折り合いが悪かったので、ライフスタイル(アドラー心理学で言うところの人生のプログラムのようなもの)の中に、「上長者と闘う」「上長者に逆らう」のようなものがあったのでしょう。
 
新しい学校では、生徒たちとはとても仲良くうまく行くようになりました。指導も授業もとてもうまく行くようになりました。SMILE勇気づけの親子・人間関係セミナーで学んだ事を、自分の子どもや生徒たちに対しては熱心に練習をしていた成果でした。
 
新しい学校は、教職員組合に入っている方が多く、組合員の方々が同和教育推進教員の先生を中心に、とてもリベラルで聡明で行動的な方々ばかりだったので、私が常に持っている管理職への反発もあって、組合に加入しました。
 
そして、その組合員の方々と公私ともに仲良くしていくようになりました。これは私の歴史の中で大きな変化でした。
 
更には、校長先生のご厚意で校内の役割分担(校務分掌と言います)で「カウンセラー」の役割をもらい、小さな倉庫を改造してカウンセラー室を作って、生徒と保護者の相談に乗るようになりました。
 
ところが、カウンセラーとして手を取り合っていた保健室の先生(とても生徒のことを大事にする尊敬する先生でした。)が転任していって、新しくやって来た保健室の先生全く逆のタイプの私から見ると高圧的なタイプでした。
 
今の私でしたら、そのような方々とも仲良くやっていくと思うのですが、当時の私は、戦闘意欲満々のライフスタイルを持っていましたので、組合員のグループと非組合員+保健室の先生+管理職のグループという対立を作っていってしまいました。
 
そして、せっかく私をカウンセラーにしてくださった校長先生を職員会議で敵側グループの一員として攻撃し、「本郷先生すいませんでした。」などと校長先生に謝らせたりした結果、当然ですがたった3年でまたもや飛ばされてしまったのです。
 
そして次に赴任した大きな中学校が、体育の先生を中心にとても管理的で、私の性に合わない学校でした。毎朝の朝会で怒鳴る校長先生がいて、誰も逆らえない雰囲気でした。
 
校長が朝から怒鳴ることを私の隣の席の女性の先生が他の学校との研究会で話したらしく、そのことがその校長先生の耳に入りました。すると、朝会で「どういうことだ!Y先生!」と大きな怒鳴り声で私のとなりの席の女性の先生を怒鳴りつけ、職員室がしーんとしたこともありました。
 
同じように、各学年の先生方も、生徒に対して高圧的に、毎日怒鳴り散らしていました。当然ですね、トップがやることを部下は真似します。この怒鳴り散らす校長先生は、県の教育委員会の中では実力者だったらしく、この学校の校長から次は熊本県の教育長に出世していきました。
 
私は、まったく性に合わない学校の中で、3年生を担任して、クラス編成の時に不登校生が4人いるクラスを担任させてもらいました。同じころ、「熊本子どもネットワーク」という組合系の組織の副代表になり、休日に子どもたちと熊本県教育会館というところで活動するようになりました。
 
性に合わない学校の雰囲気の中、学年やクラスの子ども達との交流と不登校の子ども4人の家を毎日のように家庭訪問することと熊本こどもネットワークの活動が、私の心の癒しでした。
 
不登校の子どもの家を家庭訪問して、子どもたちには「無理して学校に来なくていいよ。」、親御さんには「ご家庭が悪いわけではありません。学校に来ないんですから、学校が悪いんです。お母さん、私が悪いんではなどと責めないでくださいね。」と繰り返しメッセージを伝えていました。
 
しかし、ここでも私は闘ってしまいました。
 
不登校のN君が「この中学校の校則の丸刈りは嫌だ。」(N君は長髪可能な学校からの転校生だった)と言っていたので、
 
そのことを同和教育のレポートに、Nくんは丸刈り強制の校則という差別の犠牲者だと書いたのです。しかも、このレポートが県の同和教育大会の代表レポートに選らばれてしまいました。
 
急きょ開かれた校内のレポート検討会で、他の先生方から袋叩きのように非難されました。
 
「丸刈りのどこが悪い!」「丸刈りのどこが差別だ。」「N君は丸刈りが嫌で不登校なのではないのではないか?」大多数の先生方が、私のレポートの内容に否定的でした。
 
闘う気満々の私は、多くの避難にもめげず、N君やN君の保護者とも話し合った結果のレポートの内容だったので、そのまま県の大会でレポートしました。そんなことでは丸刈り強制校則は変わりませんでした。
 
まあ、当時の熊本県では熊本市の一部の学校以外は、全て丸刈り強制で、多くの県民は当然だと思っていたようでした。家庭訪問をしていた不登校の保護者の方が「えー。私はボウズ(丸刈りのこと)が好きだな。中学生はボウズがいいですよ。」とおっしゃったのが印象的でした。
 
ちなみに、丸刈り問題は、N君が卒業した後、次の年に「熊本子どもネットワーク」にやってくるようになったS君とS君の保護者の頑張りで、大変革が起こりました。
 
S君は、熊本県北部の温泉地のある中学校のテニス部のキャプテンで、丸刈り強制の校則にもかかわらず長髪のまま学校にも出席し、部活動も頑張っている元気な子でした。
 
そして、熊本子どもネットワークの場で、中体連大会という熊本県の中学校の運動部が出場する大会としては最も大きな大会に、長髪を理由に出場を禁止されたと告発してきたのです。
 
そして、熊本子どもネットワークと県の教職員組合の助言で、保護者の方が「人権問題」として熊本県弁護士会に訴えられました。すると、熊本県弁護士会はすかさず熊本県教育委員会に、丸刈り強制校則を「人権問題」として勧告しました。
 
するとあの怒鳴る元校長が教育長をしていた熊本県教育員会は、県下の中学校に丸刈り強制校則を見直すように指導したのです。
 
そして、その直後、熊本県のほとんどの中学校が、長年やって来た丸刈り強制校則を廃止したのです。丸刈り強制校則を意欲的に維持してきた先生方は何も異論を唱えることなく、丸刈り強制校則はなくなりました。
 
その間、一気呵成でした。私のあのレポートの時の出来事はいったい何だったんだろうとも思いましたが、この一連の出来事は、私の闘うライフスタイルをいたく刺激してしまったらしかったのです。
 
その後、私は怒鳴る校長の後に入ってきた新しい校長と、勤務時間をめぐって組合として激しく争いました。SMILEの方法はどこへやら、脅す、復讐する、従来の私のライフスタイルが連発でした。当然、その結果として、またもや3年で飛ばされました。飛ばされるのは3度目でした。
 
競争を仕掛けた同僚の先生方、脅したり、復讐を仕掛けた管理職の先生方、ごめんなさい。未熟な私の未熟な行動でした。
 
さて、私の、闘うライフスタイルを変革するのに、一大契機だったのが、ジョセフ・ペルグリーノ博士との出会いでした。
 
続く
 

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