臨床つれづれ:カルト2世 ⊂ 宗教2世 ⊂ 家(家庭)の文化 | こころの臨床

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心理学は、学問的な支えも実践的身構えも、いずれも十全と言うにはほど遠い状況です。心理学の性格と限界を心に留めつつ、日本人が積み重ねてきた知恵を、新しい時代に活かせるよう皆さまとともに考えていきます。

かつての「カルト2世」という呼び名が、いまは「宗教2世」と言い換えられています。

 

これらの語は、2つの語が組み合わさっています。

「カルト」or「宗教」と「2世」です。

 

諸事情があって、「カルト」から言い換えられた、「宗教」の語について、もし、「事典」の引用を丸写しで答えないでほしいとの条件つきで説明してと頼むと、人によってかなり幅のある、それも、主として個人的な印象に基づいた時には感情に彩られた応答があると思います。

 

にゃんが言いたいことは、「宗教」と言い換えることで、議論の対象が広がったのはいいけれど、ボヤけてしまう危険性もある、ということを見逃してはならない、ということ。

 

「宗教2世」という呼び方を評価するかしないかは別として、この語を耳にして自分の判断や印象として心の中に位置づける人々には、大まかに分けると大きくはだいたい2つ、もう少し細かく見るなら3つほどのタイプに分けられるんじゃないかと思います。…いま、「思います」と書きましたが、「懸念…心配しています」というのが、いま記しているにゃんの気持ちです。

 

 

 

 

「宗教」という語を心が受容する(認識する)タイプ分けを試みてみます。

 

 

一つ目のタイプ。

実態としての広義の〈カルト〉を〈宗教〉の語に言い換えて(誤魔化して)いるだけや~、と受け止める。

つまり、「宗教」という語一般に、なにか得体の知れない怖くて不気味なものという印象を感じながら、それ以上は深く考えず自分とは関係ないと思っておく。

 

 

二つ目のタイプ。

「宗教」を新宗教や社会問題化の俎上で論われる新々宗教、いわゆる「伝統宗教」や民間信仰なども含む、概ね、一般社会通念・常識として、「宗教」と言われてきているものやね〜と思う。

なので、「宗教2世」と言えば、日々の祈りや日曜礼拝を欠かさないキリスト者や伝統仏教を信心するご家庭、現代の日本では、家そのものがお寺や神社や新宗教も含む教会の子女など(にゃんもそう)は「宗教2世」の典型ではないかとみなす。つまり、「一般のふつうの家庭」ではなく、特別で顕著な特性も帯びたおうちの子というみなす。「ふつう」ってじつは「宗教」という語以上に曖昧な言葉なんだけど...。

 

 

三つ目のタイプ。

これはいま社会学系分野で途上とは言えかなり展開が進んでいるんじゃないかと思われる、「宗教学の対象」となっているもの、またそうなりつつある傾向をふくめた全般。

かねてより宗教(社会)学では、自己啓発セミナーやコミューン、フェミニズム系、エコロジー系、スピリチュアル系の市民運動や思想的・政治的活動などが調査研究対象でした。

だから、「宗教2世」と呼ばれる対象は、思想信条的に特殊性を帯びた環境で養育された子どもたちというみなしとなり、さらに広くなります。

 

 

 

 

 

この3番目の心の構えについて、もう少し、付け加えます。

「『宗教』概念」そのものはかねてより、西欧近代科学の枠付けによるものだとの指摘などをはじめとしてメタ的に批評されてきています。

 

なので、「宗教学者」「宗教研究者」の多くは、深く探究すればするほどあいまいになってくる「宗教概念」に対して、各々の解釈と定義の上で研究をしてきています。

 

つまり「宗教」とは何かと学術的にオーソライズされていなくて、決定版といえる「宗教」という語の定義は未だされていません。

 

ところがその一方、他領域(たとえば医療や教育、そして心理学の一部…というかマジョリティ?など)では、このような「宗教概念」のあいまいさを意識的(...戦略的)にか、単に気がついていないだけなのか、とりあえず看過しているように(見た目として)見受けられます。🙀

 

 

                                                          🏡

 

 

....話を戻しますと、これら3つを包含する、概念があることが、みなさんお気づきと思います。

 

それは、「家」「家族」「家庭」です。

 

 

 

精神科医療においてもオリエンテーションが力動系であるに限らず、診療実践・臨床実践に携わる人々にとって、「家族」は、治療の良否を左右する大きなファクターです。

 

 

心理臨床領域では(河合ユング系なのか師匠の井上亮先生個人が特に重要視されていたことなのか、にゃんは不覚にも不分明ですが)個々の事例の「家の文化」への認知と解釈を心理的支援において、重要な手がかりとします。

 

 

これは、時として、事例の過去の根拠(トラウマを含む)にこだわる後ろ向きの支援に見えるので、「過去に何があったかよりも、今ここから何ができるかが前向きの支援だ」との趣旨の学派や方法論者各位から批判されがちです。

 

 

このような批判に、いくつか反論をしたいのですが、もはやこれ以上冗長になるとあかんので、後日に回して...今回のお話しでは、これだけを申しておきたいです。

 

 

それは、「家族」はいまそして将来も事例の予後を左右する大きな因子としてここにありつづける、ということ。

 

 

 

 

今回のお話は、松本麗華さんの毎日新聞インタビューに触発されて書きました。

https://mainichi.jp/articles/20240109/k00/00m/040/108000c 

有料記事なので、購読会員以外の方が全文をお読みになれません。著作権(新聞記事であってもオンライン上では許可なく引用できない)に抵触するので、本文の引用ができないのが残念です。「宗教2世」と呼ばれる当事者からの、貴重な意見です。たくさんの人に読んでいただきたいと思いました。

 

                   🪻

 

この話題にリンクする投稿は少し先になりますが、昨年の宗教学会学術大会参加報告として3月下旬に予約投稿しております。