ブックレビュー河合隼雄特集⑮:とりかえばや男と女 1991 新潮社 | こころの臨床

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心理学は、学問的な支えも実践的身構えも、いずれも十全と言うにはほど遠い状況です。心理学の性格と限界を心に留めつつ、日本人が積み重ねてきた知恵を、新しい時代に活かせるよう皆さまとともに考えていきます。

当書には、深層心理学的手法についての解説が述べられる貴重な箇所があります。

 

深層心理学の本質は、それが「私」の心理学だということである。…[略]…要するに、私が私の心について、それが層構造をなすものとして探求してゆく。その「私」の体験をできるだけ他にも運用する言葉で記述してゆくのが深層心理学である。…[略]…従って、それは自然科学の理論のように、他に「適用」できるものではなく、私が「私」の心理学を構築する際に、私がそれを自ら用いて意味をもつ限りにおいて有用なのである。…[略]…これにフロイトやユングの理論を「適用」して当てはめごっこをすることを意味していない。あくまで、私の主観を大切にし、『とりかえばや』を通して、自分の無意識の探索をし、あるいは、自分の無意識の探索によって得たことを『とりかえばや』に関連させて、「私の物語」を物語ることが主眼なのである。…[略]…やかり「心理療法家」としては、他人の「物語」に自分のそれを重ね合わせつつ、あくまで他の方を中心として話をすすめてゆく手法をとるのである。…[略]…「曖昧なものを曖昧なものによって説明する」方法を取らざるを得ない。…[略]…こちらの主観の動き(ムーブ)に相応する動き(ムーブ)を相手の心のなかに起こす、というようなコミュニケーションを試みなくてはならない。それは、どれだけ正確に伝わったかということが問題になるのではなく、どれほど相手にとって意味ある動き(ムーブ)を生ぜしめたか、ということが焦点となってくるのである。    (pp.18-19, 「第一章 なぜ『とりかえばや』か」より)

 

また、LGBTQという現代的〈issue 課題〉に、この河合ーユング的なたましい元型論が、なんらかの解明の一助になるのではないかと思います。いまいちど、たましい元型についての河合先生の主張を顧みることに意義があるのではないでしょうか。

 

…[略]…今、元型Xがあるとしても、元型イメージの方に相当の自律性があるにしろ、自我の在り様によって、そのイメージは変わってくるはずである。そこでたましいの元型というものの存在を仮定すると、それをは把握する自我が男性的である場合は、女性のイメージとしてその元型的イメージが生じ、自我が女性的である場合は、男性のイメージとして生じると考えればどうであろう。つまり、アニマの元型、アニムスの元型が存在するのではなく、あるのはたましいの元型というひとつの元型で、それがイメージとして顕現してくるときに姿を変えると考えてみるのである。しかし、それらは、もっと深いところにおいては、両性具有的なイメージとなり、その中間に男女のついのイメージがあるのではなかろうか。    (p134, 「第四章 内なる異性」より)

 

…[略]…たましいの真実は、「物語る」ことによってのみ伝えられる、というところがある。

…[略]…このことがわからない人は、こんな「子どもだまし」の話は駄目だと言うが、それは大人の常識という「大人だまし」にいかれてしまって、たましいと切れてしまっていることを示している。  (p213, 「第六章 物語の構造」より)