ひさしぶりに、非二元的なことを書いてみる^^
完全性の入り口はどこにでも。
「できない自分」にも、
「理想的でない今」にも、どの瞬間にも。
目の前にリンゴがある、怒っている、悲しんでいる、
すべては、それ以上でも以下でもない = あるがまま。
「あるがまま。」に対して、
意味や価値、良し悪しを持たせず、
そのままに=シンプルなままにしておく。
そうやって「 重要性を手放す 」というのは、
脱力、肩の力をストンと抜く、
手放し、赦し、ありのまま、
コントロールのなさ、無抵抗さ、
そのまま、、、そんなふうにも訳せる。
できない自分(なにかの理想や基準を満たしていないようにおもえるモノこと)である瞬間にも、気づく/思い出すことはできるし、そういうモノことをさらに責めている思いや気持ち、その瞬間にも、そう気づくことはできる。
「どーしようもないダメダメな自分」であっても、
それとはまったく関係なしに、どんなときも、
完全性はある。
いまの「これ」でも「それ」でも、
どの瞬間にもあるから、
どの瞬間もそうだから、
どの瞬間に気づいてもいいし、
どの瞬間であっても、思い出すことができるもの。
そして、思い出しても思い出さなくても、
意識されようともされずとも、
それはいつでも変わらずありつづけてる。
ぐたぐたぐたぐたぐたぐた怒って怒って怒ったあげく
なんどもなんどもなんどもおなじようなことを繰り返して
やってやってやったあとに、そのことを思い出してもいい。
手遅れとか、遅いとかいうことはない
だから、
反応して、反応して、反応しきったあとに、
ふっと思い出してみてもいい。
そうなる とか そうする というより
「 もともとそうであることに、
ただ気づくだけ=思い出すだけ。」
ただ、ただ、無条件にありつづけるものだから、
重要性を手放したとき露わになるのは、
いつでも完璧・完全性。
できてない自分とか
事足りてないようにおもえることとか
そういう不完全にみえたりおもえるものも
すべて包括している
その完全性の入り口はどこにでも、どの瞬間にも。
かんじるココロケア あまのこころ