ブレイクスルー(5) | すべてはうまくいっている! 光と心の調和

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横浜の心理カウンセラー ロキのつぶやきブログ。
その人がその人らしく
『生まれてきてよかった!」
と思える人生のために。

前回から「N要素の高いフレーム」を「「P要素の高いフレーム」に変えていくP要素強化型リフレーミング = 個人によるポジティブ・リフレーミングをお伝えしています。

というわけで、P要素で心を満たして個人的P循環環境(personal Circulation Type P)につなげるという試み

「ひとりでできるもん♪ P要素強化訓練」の最終章です。

前回ご提案した「★P要素の強化方法・Level 1~Level 2」は、日常のなかで比較的簡単に行えるものでした。今回は「Level3」ということですが、この方法は人によっては抵抗があるかもしれませんし、拒絶反応が出るかもしれません。けれども、やり方によってはひじょうに効果のある方法です。

Leve1~2が、「個人と他人」「個人と社会」といった縦軸(同じ次元)のコミュニケーションによる、P要素強化型リフレーミングの提案とすると、Level 3縦軸(上の次元)のコミュニケーションを取り入れたP要素強化型リフレーミングの提案といえます。

「縦軸」を簡単にいうと、神様、仏様、宇宙の総元締、サムシンググレート、ご先祖様etc・・・との間にP循環を起こすということです。ね、かなり怪しくなってきたでしょう? ドン引きした方はお引き止め致しませぬ。

あ くまでも個々人が心に描く「神(のようなもの)」の概念、つまり「人智を越えた存在」「全てを司るもの」「究極的なもの」「永遠的なもの」「完全なもの」 「無限なもの」「何だか知らないけどすごい存在」etc. といった、横ではなく上の方にいらっしゃる「超自然的存在の概念」とのコミュニケーションです。

システム論的には、素粒子から宇宙まで、階層を越えたシステムが相互に影響し合っていると考えます。人間もその中間のどこかに位置する存在ですから、とうぜん人間も宇宙とつながっています。それを「個人と家族」と同じように「個人と宇宙」「個人と神様」との関係として規定し、同じ発想をすればよいわけです。

といっても、すでに信仰を持っておられる方は、馴染んでいらっしゃる神様や教祖様でもよいのです。自由なコミュニケーションを取り入れることが可能であれば、です。

例 外として、「神様」や「◯◯様」に「罰が当たるもの」「ひたすら畏れ多いもの」といったイメージ(刷り込み)のある方は、今回のLevel3はスルーして ください。縦軸交流によって、かえって「恐れ」「不安」の気持ちが沸き起こり、N要素を強化してしまうことになります。また、神様的な存在自体に拒絶反応 を引き起こす方もあっさりスルーでお願いします。

もちろんコミュニケーションといっても、イタコや霊能者やスピリチュアル◯◯を介して、守護霊やらご先祖様やらエンジェルやらどこぞの神様と会話するということではありません。いや、それはそれでいいのですが。(; ̄ー ̄A アセアセ・・・


少し話が逸れますが、心理学と神様(信仰)は、その源流を辿ればなかなか近い関係にあります。

最近「ヒトはなぜ神を信じるのか」ー信仰する本能ー/ジェシー ベリング といった本がでました。進化心理学の知見では、「神は人類の必然が生み出した創造物」という前提で、「ヒトは神を信じるように適応」したと解釈します。つ まり、「生き残りのために脳内で生み出したんだもんね。だから神様なんていないもんね。 」 という考えです。

まあ、よくある主張です。しかし人間の心の仕組みを一面から説明することはできますが、それが「神」の存在の有無を結論できるかといえば、まったく別問題なんですけれどね。

精神医学や心理学のない時代、心の苦しみを癒す役割を担ったのは宗教でした。
ブッダやキリストの後をゾロゾロと人々がついて行ったのは、「この人なら信じることができる」という安心感ではなかったでしょうか。

ブッダの有名な逸話に、芥子(ケシ)の実の喩えがあります。

ある村で、医者に見放された瀕死の我が子を抱えた母親がブッダの噂を聞いてやってきます。半狂乱の母親は、自分の身はどうなろうと、この子だけは助けてほしいとブッダにすがります。ブッダは伝えます。「この村をまわって芥子の実をもらってくるなら、それで薬をつくり助けてあげましょう。ただし、これまで死人を出したことのない家の芥子の実にかぎります」。
母親は村中の家を訪ねますが、先祖代々死人を出したことのない家など一件もなく、精も根も尽き果ててブッダのもとに戻ります。ブッダの腕の中で子どもはすでに亡くなっていました。母親はがっくりと膝を落とし、その死を受け入れます。


ブッダは、現実を拒否した執着の苦しみを「母親が自ら悟る」というかたちで受け入れさせたわけです。カウンセリングでいえば、認知の歪みに気づき、ありのま まを受け入れる、ということに近いでしょうか。

ブッダは神や信仰など形而上的議論は「無記」とし、「神」や「あの世」についての有無を論ずることを批判しています。いくら科学が発達しても、存在するか否かの証明は不可能ですし、けっきょくどちらの説を信じるか 信じないか・・・に帰結します。それ以上は不毛の論争になるだけです。といっても、ブッダ自身はドグマの奴隷となる信仰(閉じられたシステム)については否定しているのですけれど。

組織化された宗教を批判したアインシュタインは「私の教会は心の中に自らひっそりと設立した良心の教会なのだ」と語りました。彼は、宇宙は一貫した法則(神の意志)に貫かれており、それに対しては人間の計らいの入り込む余地は無いということを言っています。「神はサイコロを振らない」という言葉は有名ですね。既存の宗教では仏教に強い関心をもっていました。

いずれにしても、太古の時代のアニミズムから始まり、あらゆる時代のあらゆる人々が、民族や集団ごとに異なる「神」であってもその存在を信じてきたのは、それが人類の繁栄にとって都合がよかったからでしょう。もし「神」の存在が適応的ではなかったら、
これほど人類史に間断なく、多様な神様(宗教)は存在しなかったように思います。

言い方を変えれば、「パスカルの賭け」のように「神は在るに賭けた方が、掛けの勝ち負けに関わらず幸福である」・・・ということになるでしょうか。もちろん「神は無い」に賭けることで心の平安を得る人もいるわけですが。

そういえば河合隼雄先生もよく「これに賭けます」ということをいっています。

私 が言っている「なぜ」というのは人間の存在とか、われわれが生きているという根本に関係するような「なぜ」であり、それに対しては、科学では答えられない わけです。それはなにも科学が悪いんじゃなくて、そういう科学的な説明のほかに、もう一つの説明がほしい。もう一つの説明をされて「そうなんです。これに 賭けます」という、それがどうしてもわれわれにはいるわけです。
    そのときに私が思いますには、宗教の持っている意味というのは、そういうわけのわからないところがありながら、それに賭けましょうということです。(「カウンセリングを語る」/河合隼雄より)


河合隼雄の学んだユングも、若い頃から宗教的なものにひじょうに深い関心を持っていました。深層心理学理論をもとに、個人的無意識と、個人を越えた人 類共通の集合的無意識普遍的無意識)を提唱しています。ユングがそれに確信をもつ裏付けとしたものが「曼荼羅」でした。どちらかといえば、科学的根拠というよりも宗教 的発想ですね。また、ユング心理学における共時性(シンクロニシティ)という概念も、心理学というよりも何やらスピリチュアリティに近いものを感じます。 超心理学とかね。


えーと、えーと、話がとっ散らかってしまいましたが、何がしたかったのかな?・・・

そうだ、縦軸(上の次元)とのコミュニケーションを取り入れたP要素強化型リフレーミングをしよう♪という提案でした。で、怪しさを軽減するために外堀を埋めようとして志なかばで力尽きた、と。

というわけで、「★P要素の強化方法・Level 3」最終章は次回にまわします。ヾ(ーー )ォィ
  

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